こちら診察室 介護の「今」

在宅ターミナルでの選択 第36回

 病院の一室で、女性が医師から説明を受けている。

 「お父さまに対して、私たちができることはもう何もありません」

余命を宣告された母親が自宅に戻って来たのは、秋のある晴れた日だった

 ◇余命予測の難しさ

 父親は84歳。大腸がんの末期だ。リンパ節、肝臓、肺など複数の遠隔転移があるという。

 「あと、どれくらいなのでしょうか?」

 「一般的に言って、同じような状態の患者さんは3カ月ほどのようです。でも、半年や1年以上の方もいらっしゃいました」

 知りたいのは、一般論や他の患者との比較などではなく、父親本人に残された時間なのだけれど、がん末期患者の余命を正確に予測することは難しいようだ。

 ◇母親のこと

 実は、母親も15年前にがんで亡くなっている。乳がんだった。

 50代でがんが見つかり、すぐに手術をした。経過は順調で、5年、10年と再発も転移もなく過ぎていった。「もう安心」と気を許した矢先、腰の痛みが続くようになった。骨への転移だった。

 骨への転移の発覚後しばらくは、通院治療を続けていた。だが、転移が肺、肝臓、脳にまで及ぶにつれ、通院する体力がなくなり、入院での治療となった。

 そして15年前のある日、病院医師は「できる治療はすべてやり尽くしました」と告げた。娘は、子どもたちや父親を動員すれば何とかなると考え、母親を家に連れて帰ることにした。

 ◇好転

 「長くて3カ月」

 医師が告げた母親に残された時間も、今の父親と同じようなものだった。落ち葉が舞う季節、車いすに乗っての帰宅。母親は「あ〜懐かしい」と目を細めた。

 家族は「みんなで力を合わせて看病をしよう」と話し合った。ところが帰って10日もしないうちに、母親の体力と気力は回復し、寝床を離れることができたのだ。住み慣れた「家」の力なのだろうか。そして、3カ月目を乗り越えた。

 ◇暗転

 4カ月目も過ぎた。退院した時は、「家族で正月が迎えられれば」と思っていたのだが、正月どころか、この勢いなら花見にも行けそうだった。ところが梅が咲く頃、母親の食が急に細くなり、寝床にいる時間が長くなった。

 訪問診療医は、別れの日が近づいてきたと知らせた。また、かねて申し合わせていた延命のための治療は行わないことを再確認した。

 親戚の見舞いも多くなった。母親は見舞いを歓迎したが、中には、歓迎されない親戚もいた。母親の兄がその最たるもので、「なぜ病院に連れていかないのか!」と強く言う。婿養子の父親は言い返すことができない。娘が、往診の先生に診てもらっている旨を告げても、「こんなに弱っているのに、点滴もしない医者はやぶだ!」と切り捨てる。そのような押し問答が繰り返される。そうこうしているうちに、伯父の大声に同調する親戚が増え、そのうちに父親まで「病院に連れて行った方がいいんじゃないか」などと言い出した。

 ◇母親の選択

 家の中に殺伐とした空気が流れ始める。母親の状態は低空飛行が続いている。食事どころか水分もほとんど受け付けなくなった。意識が途切れる時間も多くなった。静かに休ませてあげたい。だが、毎日のように伯父の大声が静けさをかき乱す。

 娘がふと母親の顔を見ると、自分に対して何か合図を送っているような気がした。口が何かを語り掛けている。「も・う・い・い」と言っているのか。「もういいの?」。聞き返すと、母親はうなずく。「伯父さんの言う通りでいいの?」。もう一度母親がうなずく。「駄目よ。この家にいようよ」。今度は首が小さく横に振られた。その夜遅く、母親の息づかいが荒くなった。娘は119番をかけた。

 ◇後悔

 救急車のサイレンが遠くに聞こえ始めた。追い返すわけにはいかない。

 病院に付き添った娘たちは、患者から引き離された。しばらくして部屋に通されると、そこには、チューブやコードを身にまとった母親が横たわっていた。

 家にいた時とは打って変わり、母親の表情から精気が消えていた。苦しそうに顔をゆがめることも多かった。別れの言葉も、「今までありがとう」という感謝の言葉もかけられないままに時が過ぎていく。

 そのようにして母親は3日間生かされ、そして逝った。

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