女性アスリート健康支援委員会 二つの銀メダル

「同じ銀メダルでも中身が違う」
~バルセロナとアトランタ両五輪で得た貴重な経験~(1)

 1992年バルセロナ五輪(スペイン)と96年アトランタ五輪(米国)の女子柔道72キロ級で、いずれも銀メダルを獲得した日本大学法学部の田辺陽子教授(スポーツ科学)に、当時の心境や女性アスリートが置かれた状況について話していただきました。聞き手は、スポーツドクターの先駆けとして長年活動され、国立スポーツ科学センター長なども歴任された「一般社団法人女性アスリート健康支援委員会」の川原貴会長です。

インタビューに答える田辺陽子教授

インタビューに答える田辺陽子教授

 ◇バルセロナ五輪の後に一度引退

 ―最近は女性アスリートを取り巻く環境が整ってきた感じですね。

 「そうですね。そう思います」

 ―私は2000年のシドニー五輪まで6回の五輪に同行していますが、1988年ソウル五輪の前のロサンゼルス五輪までは柔道のナショナルチームにはトレーナーもいなかった。田辺さんがオリンピックに初めて出場したソウル五輪でトレーナーが帯同しましたが、選手団の一員としての立場ではありませんでした。

 「ロサンゼルス五輪ではトレーナーもいなかったのですね」

 ―「金メダルには医科学も大事だ」ということになり、バルセロナ五輪ではドクターが初めて付き、男子78キロ級の吉田秀彦さんらが減量に苦しんでいたこともあって栄養士も入りました。吉田さんはこの大会で金メダリストに。男子71キロ級の古賀稔彦さん(故人)は本番直前の練習で脚をけがしました。脚を引きずるほどのけがでしたが、金メダルを取りました。この経験から「医者は絶対に必要だ」ということでスポーツドクターの帯同が定着しました。

 「ソウル五輪では女子柔道は公開競技としてスタートしましたが、女子はあまり期待されていない感じでしたね。移動するにしても、男子は(専用の)バスで、女子は電車で。食事でも、(夜食などのために自炊する)米も自分で持って行きましたね。その当時はまだまだそういう時代だったのですね。けがをしても自分で包帯を巻いていました。テーピングではなく、よく足首に包帯巻いて。今考えると、『全然効果ないでしょう』という感じでしたね。バルセロナでは練習会場を借りていたんですが、畳というかマットというか、それが滑るので自分たちで水をまいて何とかしていました」

 ―田辺さんは減量には苦しみましたか。

 「私は減量には苦労したことがありませんでした。アトランタ五輪の前は膝をけがしていたので、しょっちゅう医務室にはお世話になりましたけど」

 ―バルセロナ五輪が終わって、一度選手としては引退しましたね。

 「そうです。女子柔道は88年ソウルで公開競技になり、私は銅メダルでした。92年のバルセロナ五輪で(正式競技として)スタートし、決勝では韓国の選手と対戦し、判定で敗れて銀メダルでした。しかし、その時が体力的にも技術的にも一番良かったと思います。その後はミキハウスにお世話になりましたが、次の96年アトランタ五輪となると30歳になりますので現役選手を引退しました。当時は20歳代後半といえば引退するのが当然のような雰囲気でしたから」

 ―そこから現役に復帰したきっかけは何だったのでしょう。

 「引退後は指導者になるために筑波大の大学院に行くことになりました。引退したといっても、学生の練習相手はしていました。そうしているうちに少しずつ体も動くようになっていて、学生たちが次の試合に向けて『減量しなきゃ』とか『対戦相手がどうこう』とか言っているのを聞いて、『わあ、いいなあ』と思いました。もし、現役に復帰するとすれば、『今しかないかな』と考え始めました。ただ、次のアトランタ五輪まで見えていたわけではなく、『国内の大会に出られたら』程度の気持ちでした」

川原貴会長

川原貴会長

 ◇現役復帰への不安、心理学で解決

 ―不安はありませんでしたか。

 「引退した選手が復帰するなんて、当時は誰もいなかったですから、本当にそんなことができるのか不安になりました。国内では92年まで全日本女子体重別で7連覇、(体重無差別の)全日本選手権で6連覇していましたから、『負けたらどうしよう』と思いました。復帰するにはタイミングや勇気が必要でした。そこで『心理学を勉強しよう』と考えました。本を読んだり、講義を受けたりしながら、カウンセリングやリラクゼーションから始めました。その後はイメージトレーニングをするようになり、(頭の中に)クリアに(試合の)画像が出るようになりました。画像を自分で動かせるようになり、外から動いている自分を見ることができるようになりました。例えば、不得意な技というのがありますが、練習してもなかなかうまくいかないものですが、空いている時間にイメージトレーニングをして実際にやってみると、うまく体が動くようになった経験があります」(了)

 田辺陽子(たなべ・ようこ) 日本大学法学部教授。全日本柔道連盟理事。講道館柔道女子7段。東京都立駒場高校では陸上部に所属していたが、同校3年での授業が柔道を始める契機となった。ソウル五輪72キロ級で銅メダル、バルセロナ、アトランタ両五輪同級で銀メダルを獲得。1966年1月28日生まれ、東京都出身。

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