こちら診察室 介護の「今」

死に場所 第5回

 首都圏に住む90歳の男性は、入院中の妻を見舞った。3歳年下の妻はがん末期。余命がわずかなことを告げられていた。

 ◇「家に連れて帰りたい」

 1人ベッドに横たわっている妻を見た夫の頬に一筋の涙が伝った。

 「家に帰ろうか」

 妻はかすかにうなずいた。

 何とか家に連れて帰りたい。だが、その思いを誰に相談すればいいのだろうか。思案した挙げ句に選んだ相談相手は、在宅療養で世話になっている訪問看護師だった。自分たちの気持ちを一番分かってくれるのは、彼女を置いてほかにいないと思ったからだ。

自宅に帰れば、愛犬にも会うことができる=坂井公秋氏撮影

自宅に帰れば、愛犬にも会うことができる=坂井公秋氏撮影

 ◇訪問看護師は動いた

 連絡を受けた訪問看護師は、すぐに病院に向かった。妻をひと目見るなり、「残された時間はそれほどない」と直感した。何人ものみとりに深く関わってきたベテラン訪問看護師は、終末期の予後の予測が医師よりも正確だという。

 「今を逃せば、家に帰れないだろう」

 そう考えた訪問看護師は動いた。訪問診療医に連絡して、自宅療養の受け入れの承認をもらうとすぐに、病院の退院支援看護師の協力を得て主治医から退院の許可を取り付けた。

 妻は、PCAポンプでの緩和治療中だった。PCAはPatient Controlled Analgesiaの略で、「自己調節鎮痛法」とも言われる。医療者がポンプに鎮痛薬(医療用麻薬)をセットし、患者が痛みを感じたときに自らボタンを押せば、鎮痛薬が適量投与される。痛みは患者自身が一番よく知っている。その意味で画期的な方法だ。

 訪問看護師は、病院の薬剤部に在宅用PCAへの切り替えを要請。加えて、自宅まで妻を寝たまま搬送できる介護タクシーを手配した。

 ◇2人だけの時間を過ごす

 訪問看護師が夫から相談を受けたのは午前中だった。その日の夕方には退院にこぎ着けた。

 帰宅と合わせるように訪問診療医が自宅を訪問。診察と在宅用PCAポンプのセットを行い、自宅まで同行した訪問看護師が夫にポンプの使い方を説明した。

 PCAポンプは、患者自身がボタンを押すのが一般的だが、妻の覚醒レベルは低く、自分でボタンを押すことができない。訪問看護師は「奥さまが痛そう、苦しそうだったら、ボタンを押してくださいね」と優しく夫に言った。

 ◇夫の感謝

 筆者が自宅を訪ねたのは、その翌日だった。ベッドサイドには将棋盤が置かれていた。夫は将棋の棋譜を並べながら、ずっと妻の横に寄り添っていたのだろう。2人の間にどんな時間が流れたのかは分からない。その2日後、妻は息を引き取った。

 死後の処置をする訪問看護師に、夫は感謝の意を伝えた。

 「妻が病気になって、初めていとおしいと思いました。家に帰ることができて、本当にありがとうございました」

 ◇自宅で亡くなる人が増加

 かつては、自宅で死ぬのが一般的だった。国の統計によれば、病院死が自宅死の割合を逆転したのは1975年ごろだ。以降、両者の差は開き続け、30年後の2005年には、病院(診療所を含む)死は82.4%、自宅死は12.2%になっていた。ところがその後、両者の差は縮まり始め、21年には病院などの死は67.4%、自宅死は17.2%となっている(厚生労働省人口動態統計)。

 自宅死が増えたのは、20年から始まったコロナ禍による影響もあるようだが、ここ十数年、自宅死の割合が確実に増えてきた。

 ◇死に場所を選べる可能性

 自宅で亡くなる人の割合の増加は、医療費の増大を抑えるために在院日数の短縮化や在宅診療報酬を手厚くするなど、国による誘導が大きな理由だ。半面、訪問看護や在宅介護サービスなどの充実が、核家族化による在宅介護力の低下を補うようになった側面も見逃せない。

 九州地方の看護師の資格を持つケアマネジャーは「たとえ一人暮らしでも、自宅で亡くなることは可能だ」と断言する。

 本人が希望すれば、死に場所を選べる可能性も見えてきた。ただし、事はそう単純ではない。

  • 1
  • 2

こちら診察室 介護の「今」