医学トップの視座

地域を拠点に世界へ
未知の課題に立ち向かう―徳島大学医学部

 ◇全国各地で実習・研修

 6年生で行う学外臨床実習は北海道から沖縄まで70以上の学外施設と協定を結んで実施している。初期研修プログラムも同様だ。徳島は拠点であって、どこに行ってもいいというスタンスを大切にしている。

 「キャリア形成上、縛らないということがとても大事だと思っています。主体的に考えて世の中を切り開いていきなさいと言っておいて、でも徳島から出るなというのは、おかしい、外に出ていく学生もいれば、外から入ってくる学生もいる。それである程度の数は確保できている状況です」

インタビューに応える赤池雅史医学部長

 ◇循環器から医学教育へシフト

 赤池医学部長は地元徳島で教員の父、専業主婦の母の長男として生まれた。高校までは文系と理系のどちらに進むかぎりぎりまで悩んだという。地元に残ってほしいという両親の強い希望に応えて医学部に進学した。

 「そんなに高い理想があって医師を目指したわけではないんです。地元に残るには、医師か公務員か教員など職業が限られてしまいますから」と笑う。中学生の頃から特発性心室頻拍という不整脈の持病があったことから、専門領域として循環器内科を選んだ。

 卒業後は徳島大学病院や関連病院を経て、大阪の現・国立循環器病研究センターのレジデントとして、全国から選ばれた医師たちの間で腕を磨いた。42歳で米ニューヨーク州にある大学に留学の機会を得て1年間研究に専念した。

 「なかなかチャンスがなくて、かなり遅い留学でした。40歳すぎてから行っても誰も相手にしてくれないんですが、研究成果を出すと、ちゃんとリスペクトされて、いい世界だなと思いました。もう少し若いときに行けたらよかったですね」

 徳島大学に戻ると、人材育成の仕事を任されるようになり、しばらくは循環器の臨床と医学教育の仕事を並行して行うようになった。

 当時、循環器内科ではカテーテル治療が盛んに行われるようになり、「次第に自分のやりたかったことから、ずれてきてしまいました。特定の技術を磨くことより、総合的な仕事のほうが向いていると考えるようになりました」と赤池医学部長は振り返る。

初代医学部長・学長の中谷篤郎氏と「学者如登山」を記した石碑

 その後、医学教育がメインの仕事にシフトした。医療の進歩にともない仕事の領域も変わってくる。「変化に応じて自分を作り替えながら、新しいものに向かっていくことが大切だ」と自らの経験から話す。

 ◇学ぶ者、山を登るが如し

 初代医学部長・学長の中谷篤郎氏が大切にしてきた精神「学者如登山」を大切に受け継いでいる。学べば学ぶほど、高い山に登るがごとく、だんだん視野が広がっていって、見えないものが見えてくるという意味だ。

 「医学部の学生は優等生が多く、近視眼的になりやすいのが心配なところです。患者さんと対峙(たいじ)する仕事は思いのほか、きつい。思いもよらず患者さんが亡くなることもあれば、よかれと思ってしたことで恨まれることもある。世の中は矛盾と不平等と理不尽の塊。理不尽な経験からも学ぶことがある」と赤池医学部長は諭すように語る。

 「自分を作り替えることを恐れず、未来に対峙していってほしい。大学として、そのための環境はつくらなければいけない。責任は重いと思います」。次世代の医師を育てる仕事の重みがずっしりと伝わってきた。(医療ジャーナリスト・中山あゆみ)

【徳島大学医学部 沿革】
1943年 徳島県立徳島医学専門学校を設立
  48年 徳島医科大学を設置
  49年 徳島大学医学部を設置
  55年 大学院医学研究科を設置

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