ヒポクラテスたちへDr.純子のメディカルサロン

「人間力」を高め、世界を相手にする医師に
藤川眞理子・市原保健所所長

 藤川眞理子先生と初めてお会いしたのは数年前です。私が都内の保健所の市民講座で講演したとき、近隣地区の保健所に勤務されていた藤川先生が聴きにきてくださいました。それ以来、私のジャズライブにもいらして、ミュージシャンとも楽しそうに話される姿を見て、自由でのびのびと自分の人生を生きておられる女性だな、と感じていました。現在は千葉県市原保健所の所長を務める藤川先生にお話を伺いました。


 海原 藤川先生が医師になろうとしたきっかけは何でしょうか。

 藤川 きっかけは覚えていないのですが、高校時代に学校の図書館にあった英国人医師の作家A.J.クロ―ニンの全集を読破しました。その中の「城砦」という自伝的な作品が気に入り、医師という職業を意識するようになりました。

 母が薬剤師になることを強く希望していたこと、数学の苦手意識が強かったことから推薦入学で北里大薬学部に入りました。その後、皇后陛下のお話し相手としても知られている神谷美恵子先生(精神科医)の著書「生きがいについて」を読んで、はっきりと医師になろうと決意しました。


 海原 医学部に入ったときはどのような分野に進もうと考えていたのですか。

 藤川 心理学に興味があったので心療内科もいいなと思っていました。


 海原 どのような学生時代でしたか。

 藤川 薬学部を卒業してから医学部に入学したので現役生とは年齢差がありましたが、ESSの部長を務めて国際医学生連盟(IFMSA)の活動をしたり、3年生の夏休みにはデンマークのオーフス大医学部のサマースクールに1カ月参加したりと、「2度目の大学生活」を前半はのんびりと楽しみました。後半はもろもろの事情で精神的にしんどい学生時代を送りました。


 海原 医師になった後、大変だと感じたことがあれば教えてください。

 藤川 やはり仕事と家庭の両立が大変でした。どちらも最善を尽くして頑張ろうとしたからだと思います。結婚後すぐに東京から夫の実家のある富山に移りました。最初から夫の両親と同居でした。2年目に義父が亡くなり、姑の強い要望で夫は外科医としての道半ばで有床診療所を継承しました。家事一切と医院の管理はすべて姑の役割でした。

 私は幼稚園から大学まで東京の私立で過ごしたので、公立志向が強い富山での子育ては戸惑うことや悩むことが多かったです。医師としては母校の糖尿病センターで研修をスタートし、専門科目を糖尿病に定めて富山医科薬科大第一内科に入局しました。

 長男が生まれた翌年に大学院に入り、その翌年に次男を出産しました。私にとって、大学院時代は海外での学会発表や子育てに費やす時間も捻出でき、充実した期間でした。ただ当時、子連れ米国留学を計画したのですが、留学先、現地の保育園も決まっていたにもかかわらず実現できませんでした。

 指導者には恵まれ、糖尿病専門医・研修指導医の資格を取得し、大学病院の糖尿病専門外来担当と富山県糖尿病療養指導士の創設、看護師・管理栄養士・薬剤師と連携した富山県糖尿病地域医療体制の構築などにも関わりました。

 その後、医局人事で北陸初の糖尿病専門クリニックの院長になったのですが、オーナーの利潤追求の経営方針にへきえきしていました。そのころ、大学の先輩だった保健所長と縁があり、行政医師として糖尿病対策に直接関与できるということで富山県庁に入りました。転向ではなく「糖尿病専門医マインドを持った公衆衛生医師」というスタンスで今に至っています。

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