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2020大会が示す理想と現実
~多様性、共生の理念は実現できたか~ 検証・パラリンピック東京大会

 障害のある選手によるスポーツの総合大会、第16回夏季パラリンピック東京大会。国内で新型コロナウイルス感染症の収束が見通せず、東京都などに緊急事態宣言が出される中、感染防止対策を施しながら13日間の日程を終えて閉幕した。コロナ禍で原則無観客で開かれ、「多様性」や「共生社会」の実現を訴えた異例の大会は何を残したのか。検証する。(時事通信運動部記者 大野 周)

競泳女子100m背泳ぎ(運動機能障害S2)で銀メダルを獲得した山田(手前)

 ◇57年前の記録映像

 日本で初めてパラリンピックが開かれたのは1964年11月だった。

 「日本の障害者スポーツの幕開けとも言える舞台の雰囲気に少しでも触れてから今夏の祭典に臨みたい」

 そう思い立ち8月下旬、当時の記録映像が保管されている東京・九段下の国立施設「しょうけい館」に足を運んだ。

 厚生省(現厚生労働省)が企画制作に携わった映像には、黎明(れいめい)期の運営ぶりが刻まれていた。

 例えば、複数の障害物を通過する速さを競う陸上種目。車椅子の選手が競技中に転倒してしまうと、周囲の係員が慌てて駆け寄り、抱きかかえて座り直させ、再開させようとした。競泳では、脊髄損傷の選手が途中で進めなくなる事態を想定してか、選手と同じレーンを追い掛けるように泳ぐ介助者の姿もあった。

 車椅子は、多様な競技に合わせて進化してきた現在のものとは違い、病院などでよく見掛ける生活用のもの。自力で体勢を立て直すための補助具も当然普及しておらず、手探りに近い状況で、溺れる最悪の展開を織り込んで進行させていたに違いない。

 そんな思いが透けて見える記録映像が、かえって選手を競技者ではなく「守ってあげるべき存在」と認識していたことを伝えている。

 ◇国枝選手の存在

 それから57年。参加国・地域、選手をはじめ関係者の数を見ても、健常者の世界大会に引けを取らないほどになった。

 用具の進化のほか、障害の箇所や程度、スポーツの種類に応じたトレーニング方法の進歩を背景に、国内の競技力も向上した。そうして自らの価値を高めることに成功した一人に、車いすテニスの国枝慎吾選手(ユニクロ)がいる。

 その道のりは、近代パラスポーツの発展と重なる。大学生だった2004年アテネ大会でパラリンピック初出場を果たすと、その男子ダブルスで金メダルをつかみ取った。それまでは、海外転戦などにかかる経済的な負担を理由にアテネを引退の花道と考えていたが、「お土産」が手に入ったことで、現役を続けられる望みを探すことに。最終的には母校の麗澤大学の職員として就職した。

車椅子男子シングルス決勝でプレーする国枝

 ◇競技レベルの成長ぶり披露

 国枝選手は、競技生活だけで生計を立てるプロとしての道を切り開いた人でもある。後に続こうというパラアスリートの、競技を続ける勇気と希望の道しるべになった。

 東京パラの男子シングルスで金メダルを獲得した後には、所属先のユニクロから報奨金として1億円を贈られることも話題に。贈呈の狙いを「パラスポーツの地位向上、パラスポーツが純然たるスポーツビジネスとしても、十分に成立し得る可能性を示した」としている。

 64年大会の日本選手団は、主に療養所の入所者をかき集めた形。その時から諸外国の選手は仕事や車を持っていたという。障害があっても自立できることを肌身で知り、それが成熟した社会の在り方だと認識したことで、日本政府も障害者政策に本腰を入れる流れができた。

 それが前回の開催意義の一つだとすれば、今回は競技レベルの高さを披露したことで、スポーツとして捉える新たな可能性を示す契機になったと言える。

 ◇新型コロナ禍でも

 障害者スポーツの大会としては最大規模の夏季大会を同じ都市に招致したのは、東京が初めてだった。ましてや、東京五輪とともに異例の1年延期を経ても、新型コロナウイルスの影響を強く受ける格好での幕開け。57年前とは全く違う意味で暗中模索の大会運営になった。

 最大の懸案は感染対策だった。重度の脳性まひを抱える選手が参加するボッチャをはじめ、文字通り命懸けで出場しなければならない者もいた。懸念を払拭(ふっしょく)できず、来日を見送るアスリートが出たのも当然だった。

 8月に国内感染者数が増加局面に入ることは類推できた。いわゆる「ステークホルダー」が多数いる五輪は乗り切れても、ともすれば生命に関わる選手の参加するパラリンピックが本当に実施できるのか──。半信半疑ながらも、「開催への望みを捨てたくない」。選手や関係者の揺れ動く胸中は痛いほど伝わってきた。

 東京五輪に続いて関係者の定期的な検査や換気、マスク着用、手指消毒、密の回避などといった基本的な感染対策を行いつつ、競技用車椅子をはじめパラアスリートの用具消毒を徹底。その結果、大会期間中に日本選手団から陽性者を出すことはなく、全体としても深刻な状況に陥ることはなかった。来年3月の北京冬季パラリンピック以降も、パンデミック下での開催成功例として引き継がれていくことだろう。

柔道の試合開始前、畳を消毒する人たち

 ◇苦境を越えた先

 一方で、無観客を選択せざるを得なかった関係者の苦しい胸中は、想像に難くない。日本パラリンピック委員会の河合純一委員長らが開催自治体に掛け合うなどし、地元の児童生徒に観戦してもらうプログラムだけは批判覚悟で死守した。感染症の流行前は「東京パラの全会場を満員に」を宣言したほどだったからだ。

 パラリンピックの第1回に当たる1960年のローマ、第2回の64年東京は五輪と同じ都市で開催されたが、夏季ではそこから5大会は別々の開催地となった。88年ソウルからは同じ場所での開催が確立しても、五輪と比べると報道される機会が乏しく、リアルタイムで見てもらうにも障壁があった。

 障害と向き合い、筆舌に尽くしがたい苦難を乗り越えただけでなく、残された体を鍛え抜いたパラリンピアンは、「多様性を認め、誰もが個性や能力を発揮し、活躍できる公正な機会が与えられている場」と定義されるパラリンピックの象徴そのもの。一つの大会組織委員会が「オリパラ」両方を運営する形になった2008年北京夏季大会以降、パラの競技力や価値が上がった中、自国開催で日本選手が活躍すれば、人々が障害を持つ人たちに関心を抱く契機になるのではないかという期待感があった。

 ふたを開けてみれば、大会競技初日からその理念を体現するような新星が誕生した。競泳女子の山田美幸選手が100㍍背泳ぎで銀を獲得。生まれつき両腕がなく、障害のために両脚の長さが違っても楽しそうにすいすい泳ぎ切り、日本パラ史上最年少の14歳でメダリストになったことが大きな注目を集めた。前向きに生きられるように導いてもらった亡き父の口癖にちなんで、「私もカッパになったよ」と言ったレース後のインタビューは感動を誘った。競泳男子の木村敬一選手の涙の金メダルなどとともに多くの人の胸に刻まれたのではないか。

ボッチャのチーム(脳性まひ)3位決定戦でプレーする杉村(右から2人目)

 ◇「するスポーツ」

 ボッチャは、杉村英孝選手の金を含む複数のメダル獲得となった日本の活躍も手伝ってか、東京都内の公式ショップではキーホルダーなどの関連グッズが軒並み完売。企業の研修などにも取り入れ、「するスポーツ」としても広がっており、車いすバスケットボールに並ぶ人気競技の仲間入りを果たしたと言っても過言ではない。

 こうした変化は、障害者スポーツの管轄が厚労省から文部科学省に移り、スポーツ庁が立ち上がるなど競技スポーツとして発展していく環境が整ったからこそである。13年9月の東京大会招致決定以降、官民挙げて機運醸成に向け足並みをそろえた取り組みが実ったと言っていい。

東京パラリンピック閉会式会場に集まる各国選手団

 ◇真の共生社会へ

 競技や選手に興味を持つきっかけづくりに一定の効果はあったが、問題はその関心をどうつなぎ留めるかだ。依然として新型コロナウイルス禍が続く中、10月に東京都内で行われる予定だったバドミントンの世界選手権は延期になった。その他の競技でも入場制限や無観客を視野に入れつつ、熱が冷めないうちに国内大会を開催する動きはある。

 国の予算も民間企業からの協賛金も、これまでのような上げ潮とはいかないだろう。限られた資源を有効に使い、切れ目のない強化を進め、普及振興を図っていくことが肝要だ。

 オリパラを通じて掲げられたビジョンの一つ「多様性と調和」、その理想を目に見える形で提示したのが今回の東京大会だった。

 もっとも、これは日本社会にしっかり根付かせるための種まきにすぎないことは自明だろう。パラリンピックが開催されるたびに、尊い目標と東京後の現実を照らし合わせ、問い直す。その地道な歩みの先に真の共生社会が待っている気がする。(時事通信社「厚生福祉」2021年11月16日号より転載)

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