一流に学ぶ 「女性外来」の先駆者―対馬ルリ子氏

(第1回)
生き別れになった双子の妹
30年間、別々の人生歩む

 ◇病弱だが活発な子ども時代 

七五三の記念撮影。父親の耳鼻咽喉科医院の前で。手前右側が対馬氏
 双子で早産だったことが影響したのか、対馬氏は出生時、2400グラムの低出生体重児で幼少期は小柄だった。へんとう腺をよく腫らして熱を出し、月に1週間は学校を休んだ。体の弱さとは裏腹に活発に動き回る子どもで、学校では授業中に教室内をうろうろ歩き回ったり、窓の外をボーっと見ていたりすることが多かったという。

 「テスト中も自分の答案を書き終えると、歩き回ってお友達に解き方を教えました。今だったら注意欠陥・多動性障害(ADHD)と言われたかもしれませんね。先生にも大分迷惑を掛けたと思うけど、当時はおうようでしたね」。あまり寝ない子だったという。幼稚園の昼寝の時間が苦痛だったことをよく覚えている。

 「常に動き回ってるんですよ。部屋の電気を消されると、お布団の中に電気スタンドを引っ張ってきて本を読んだり。父がよく『眠れなくてもいいから目をつぶって、体を休ませなさい』と言って、クラシック音楽をかけながら、いろいろお話してくれたりしました」

中学生の頃、軟式テニス部の副部長
 小学3年の時、耳鼻科医の父にへんとう腺を手術してもらうと、急に成長が良くなり、周囲に追いついた。姉妹でピアノと日本舞踊を習い、ピアノは中学1年まで、日舞は高校3年まで続けた。

 中学では、国体選手だった母親の影響で軟式テニス部を立ち上げた。「校庭にローラーを引いてテニスコートも自分たちで作ったんです。指導者もいなかったから、近くの高校まで行ってコーチをしてもらっていました」

 放送部の活動や生徒会活動にも励んだ。学業優秀で定期テストはだいたい学年で1位。高校で地域のトップ校に進学すると、周囲から医学部進学への期待がかかるようになった。(ジャーナリスト・中山あゆみ)

→〔第2回へ進む〕花の東京浪人生活=同級の女生徒とルームシェア

  • 1
  • 2

一流に学ぶ 「女性外来」の先駆者―対馬ルリ子氏