「医」の最前線 行動する法医学者の記録簿
海難事故、複数死の検視・検案に備える
~長崎大と海保が締結した類例ない協定~ 【第6回】
大型クレーン船で台船上に引き揚げられる巻き網漁船「第11大栄丸」=2009年9月24日、長崎県平戸市沖【時事通信社】
◇生かされた2度の沈没事故対応
池松教授も過去、2度の大きな海難事故で収容された遺体の検案を担当した。その時の経験が、7管本部との協定内容に反映されているのだという。
1度目の海難事故は、2009年4月に長崎県平戸市沖で起きた巻き網漁船「第11大栄丸」(135トン)の転覆、沈没事故。乗組員22人のうち、10人は救助されたが、12人が行方不明となった。
同年9月、水深約80メートルの海底に沈んだ船を引き揚げ、船内から11人の遺体を発見、収容し、佐世保海上保安部の敷地内に臨時検視場所を設営。長崎大法医学教室の協力を得て、海保が検視と身元確認作業を行った。
「海保敷地内の芝生の上にテントが張られ、そこで検視・検案が行われた。私たち法医は1週間交代で派遣され、長崎から佐世保まで車で通った」。准教授だった池松教授は当時を振り返り、移動に負担を感じたことを率直に語った。
海底からの引き揚げに5カ月を要したことから、遺体は石鹸(せっけん)状に変性する死蝋(しろう)化が進み、さらに水生生物によって蚕食されていた。このため検案でできることは限られ、身元は歯牙鑑定で9人が特定されたほか、残り2人は長崎県警科学捜査研究所のDNA鑑定で判明した。
「ほとんどが(県警嘱託)歯科医の歯の鑑定により、個人が識別された。私たち法医はむしろ、マスコミ対策に追われた」
テントの周りはビニールシートで囲われていたが、隙間から中の様子が撮影されていたという。「(臨時検視場所の設営は)海保としてもほぼ初めてで、手探りの部分はあった。後からマスコミ関係者に聞くと、搬送されるところの絵はほしいと。せっかく壁を作っても撮られるので、臨時のベースを設けて(作業)するのは面倒なだけだと思った」
◇検視場所の密室性を担保
2度目の海難事故は、翌2010年1月に長崎県五島市福江島沖で起きた二艘(そう)底引き網漁船「第2山田丸」(113トン)の沈没。乗組員10人(日本人4人、中国人6人)全員が行方不明になった。
同年6月に水深約150メートルの海底から船体を引き揚げ、長崎海上保安部の捜索で船内から10人の遺体を発見。遺体は長崎大へ運ばれ、法医学教室で検視・検案、警察嘱託歯科医による歯牙鑑定、法医による司法解剖が行われた。
「大栄丸の時のマスコミの問題もあるし、遺体を保存するための冷蔵庫など、やはり設備が整った大学の方がいいだろうと、こちらから海保に提案したんです」
沈没事故から5カ月ぶりに引き揚げられた「第2山田丸」=2010年6月13日、長崎県五島市沖【時事通信社】
この時の身元特定の流れについて池松教授は、検視・検案後に歯牙鑑定を行い、それでも分からない場合は、解剖を実施したと説明する。解剖で大腿(だいたい)骨の一部を取って、県警科捜研でのDNA鑑定に回すという手法が取られた。
検視・検案場所としての大学の密室性は担保され、結果的に日本人4人と中国人1人は歯牙鑑定で、残る中国人5人はDNA鑑定でそれぞれ身元が確認され、家族に引き取られた。
(2024/06/04 05:00)