「医」の最前線 行動する法医学者の記録簿

リゾートで作業着、それもアイデンティティー
~法医学者ら、沖縄南部で戦没者の遺骨を掘る~ 【第4回】

 真夏の太陽が容赦なく照り付ける中、作業服に手袋、リュック姿の一団が、亜熱帯の背の高い緑に覆われた傾斜地をはうように登って行った。夏休みシーズンとはいえ、アウトドアを楽しむ人たちとは明らかに異なるいでたちだ。全員が長靴かトレッキングシューズを履き、頭にヘッドランプを装着した人もいる。

 ここは沖縄県の最南端に位置する糸満市の山城という小高い丘陵地帯。78年前の太平洋戦争末期の沖縄戦で、旧日本軍将兵や地元住民が、本島に上陸した米軍に追い詰められた場所だ。近くには当時、看護要員として動員され、沖縄陸軍病院に配属されて散華した女子学徒の慰霊碑「ひめゆりの塔」などがある。辺り一帯が沖縄戦跡国定公園に指定されたエリアだ。

戦没者遺骨の収集活動を前に、具志堅隆松さんの説明を聞く「日本法医病理学会」の参加者ら=2023年8月12日、沖縄県糸満市山城

 ◇ガマの中からコケの生えた骨

 年齢もばらばらなその一団は、「日本法医病理学会」の法医学者らで、向かう先は石灰岩の塊が露出し、ぱっくりと口を開けたような「ガマ」と呼ばれる自然洞窟である。米軍の苛烈な砲撃から身を隠して抵抗を続け、死の恐怖に必死に耐えながらも絶命した兵士や住民ら戦没者遺骨の発見と収集を行うのが目的だ。

 密林地帯を先導するのは那覇市の遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」(ガマを掘る人の意)代表の具志堅隆松さん(69)だ。カマを手にクワズイモなどが生い茂る斜面をかき分け、どんどん進んでいく。学会理事長の近藤稔和・和歌山県立医科大教授や理事で長崎大医学部長の池松和哉教授も、密集する植物の枝や葉を落としながら、人の通行がしやすいように道筋を付けながら歩を進めた。

 石灰岩がむき出しになった急傾斜地手前の地表には、旧日本軍のものとみられる小銃の実包が、泥にまみれて転がっているのが早速見つかり、今踏みしめているのがかつて戦闘のあった土地であることを実感させる。

 目的地のガマは3カ所。いずれも予想した通り足場が悪く、岩が上から覆いかぶさるような形状で、一つのガマに入れるのは3~4人がやっとという様子だ。具志堅さんが、「この辺りは兵隊と住民が共に潜んでいた軍民混在のガマ。米軍の火炎放射器の火も入ったと推定されています」と説明する。

地図

 メンバーはここで3グループに分かれ、身をかがめてガマの中に入ると、配布された熊手などで堆積した土砂や腐葉土の除去を始めた。遺骨が眠る土の上を踏んではいないかと、限られたスペースの中で身の置き場に最大限、神経を使っている様子が手に取るように分かる。

 南側のガマからは、表面の土を少しどけただけで、小さな骨の破片がすぐに見つかった。西側のガマとその周囲からは、防毒マスクのフィルター部分を詰めた吸収缶と呼ばれる容器や軍靴の一部、水のろ過器とみられるものなど、旧日本軍の遺物が複数発見された。

 最も成果があったのは、ガジュマルの大木の下に開口部を持った東側のガマ。斜面に沿って縦方向に長い亀裂が延び、その下に比較的広い空間があった。4人ほどが潜り込んで作業を続けると、やがて「おお」という声がして、脛骨(けいこつ)とみられる足の骨が見つかった。

 骨表面の一部にはコケが生え、年月の経過によって風化が進んでいることがうかがえたが、周囲は労が報われたような空気に包まれ、ガマから土砂をかき出す人の作業速度が速くなった。

 土に埋まっていたラグビーボールより一回りほど小さい石も次々と取り出され、今度は歯の残った下顎骨(かがくこつ)の一部が収集されて再びどよめきが起きた。長崎大大学院歯科法医学分野の山下裕美助教と日本歯科大歯科法医学講座の岩原香織教授が現場で鑑別した結果、残念ながらヒトの歯ではないことが分かると、小さな落胆の声が漏れた。

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