こちら診察室 介護の「今」

農家の嫁 第16回

 ◇要介護となる

 農作業をしなくなると、今度は一転、何もすることがなくなった。何もしない日々が続く中で、女性は足腰の衰えを感じていた。

 そんな母親を心配したのか、長男は「庭で野菜でも作ってみたら」と勧め、女性は言われる通りにした。久しぶりに嗅ぐ土の匂いは懐かしい香りがした。

 「私はやっぱり、農家の嫁なのかねえ」などと思いながら、土をせっせと耕した。しかし、足腰は思いの外弱っていたようだ。耕した土に足をとられて転倒、大腿骨頸部(だいたいこつけいぶ)骨折と診断された。女性は介護を必要とする身の上となった。

 ◇優しい長男

 病院に見舞いに来た長男夫婦に女性は「お前たちには面倒をかけたくないから、老人ホームに入れておくれ」と言った。

 すると間髪入れずに長男は「何を言うんですか! 僕たちはお母さんを家でみるって決めたんです」と返した。

 女性は、長男が夫に似て優しい心を持つことを改めて知った。

 ◇不思議な体験

 それから1週間して、長男は1人の男性を連れて来た。ケアマネジャーという職種の人だと言う。その男性は丁寧な自己紹介の後、「ご自宅での暮らしが素晴らしいものになるように、一緒に考えていきましょう」などと、きざなせりふを吐いた。

 程なくして退院。不安を抱えたまま、自宅での暮らしを再開した。そして2週間後、自宅の客間でサービス担当者会議なるものが開かれた。

 その会議の中心に自分がいることに女性は不思議な感覚を覚えた。結婚してこの方、自分が家族の中心に座ったことなどなかったような気がする。不思議な感覚はさらに続く。ケアマネジャーが「ご意見はありませんか?」と繰り返し尋ねるのだ。自分の意見などどこかに置き忘れてきた。そう言えば長男に「老人ホームに入れておくれ」と頼んだのが、久しぶりの自分の意見かもしれない。

 その時ふと、娘時代に憧れた教師の姿が浮かんできた。確か、自由主義を標榜(ひょうぼう)していたその教師は「自分で考えなさい、自分で選びなさい」と言い続けていた。女性には横に座っているケアマネジャーの姿が、その憧れの先生に重なって見えるのだった。(了)

 佐賀由彦(さが・よしひこ)
 1954年大分県別府市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。フリーライター・映像クリエーター。主に、医療・介護専門誌や単行本の編集・執筆、研修用映像の脚本・演出・プロデュースを行ってきた。全国の医療・介護の現場を回り、インタビューを重ねながら、当事者たちの喜びや苦悩を含めた医療や介護の生々しい現状とあるべき姿を文章や映像でつづり続けている。中でも自宅で暮らす要介護高齢者と、それを支える人たちのインタビューは1000人を超える。

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