こちら診察室 介護の「今」
なぜ施設が尻込みするのか 第12回
83歳の川崎敏恵さん(登場人物はすべて仮名)は、介護保険の認定で最も重度な要介護5だ。2年前に玄関先で転倒し、大腿骨頸部(だいたいこつけいぶ)骨折で入院。リハビリのかいもなく、ほぼ寝たきりの状態となってしまった。
◇必死で生きようとする姿
3カ月の入院を経て帰宅。嫁の直子さん(55歳)が介護を続けている。敏恵さんが元気な頃は、嫁としゅうとの確執があったのだが、「老人ホームにだけは入れないでおくれ」とすがる目を見て、嘆願を受け入れた。
直子さんは「嫁・しゅうとの関係を通り越し、一人の人間と人間という関係で介護を続けていく気持ちになりました」と言う。直子さんが見たのは、誰かの手助けがなければ生きてはいけない弱々しい老いた女性の姿だった。
「私がいなければ」
そう思って世話を続けるうちに、必死で生きようとする人間の生命力を感じたのだ。
◇食欲が戻る
敏恵さんは、入院中に胃ろうを造設(造設とは建築用語だが、医療の世界ではこう呼ぶ)した。胃ろうとは、口から食事が取れない人のおなかに小さな穴を開けてチューブを通し、胃に栄養を直接流し込む方法だ。
この胃ろうにより、敏恵さんは生命を維持してきた。退院後、思い出のいっぱい詰まったわが家に戻ると、入院中に見せていたどんよりとした目の曇りは消えた。さらに、「大丈夫、老人ホームにお義母さんが入ってもらうことはありません」と嫁が確約したこともあり、食べる意欲が湧いてきた。
「何か食べさせておくれ」
直子さんは、胃ろうをしている人に食べさせてもいいのだろうかと、かかりつけ医に相談した。
誤嚥性肺炎を起こすと、抗菌薬を用いた薬物療法が行われる。高齢になるほど予後不良となる傾向がある
◇経口摂取を再開
かかりつけ医は言った。
「胃ろうであっても、食べたり飲み込んだりする機能に深刻な問題がなければ、口からの摂取は不可能ではありません」
食べたり、飲み込んだりする機能を、摂食嚥下(えんげ)機能という。食物を認識して口に運び、かんで唾液と混ぜることで飲み込みやすい形に整え、ごくんと飲み込み、胃に送る一連の動作のことだ。
かかりつけ医に紹介された病院で評価を受けると、敏恵さんの摂食嚥下機能は、加齢に伴い衰えてはいるが、深刻な問題がないことが分かった。
これを受けてかかりつけ医は、言語聴覚士(ST)、訪問看護師、歯科衛生士らとチームを組んで嚥下訓練を開始。その後、直子さんはチームの指導を受け、介護用ベッドの背を起こすなどして、喉をつるりと通過するゼラチン食から、敏恵さんの経口摂取を徐々に再開していった。
◇どこに居ても食べさせて
直子さんの介助を受けながらではあるが、自分の口から食べることの喜びを、敏恵さんは感謝の言葉で伝えた。
「ありがとね、おいしいよ」
その言葉を聞くだけで、直子さんの介護疲れは癒やされる。
敏恵さんは、介護保険のデイサービス(通所介護)やショートステイ(短期入所)を利用している。デイサービスは週2日、ショートステイは1カ月に1週間程度だ。
直子さんは、家に居るときだけではなく、通所や短期入所のときも経口摂取をしてもらうことを望み、ケアマネジャーに相談した。
◇デイサービスの条件
ケアマネジャーはそれぞれの施設に掛け合った。結果は、デイサービスは条件付きでOK。ショートステイはNGだった。
デイサービスが出した条件は、「胃ろうをしている人に食べさせた前例はないが、安全面から、摂食嚥下の専門の人が職員を指導してくれればよい」というものだった。ケアマネジャーは、かかりつけ医に相談。その条件がクリアできることになった。
◇ショートステイは難色
一方、ショートステイは「胃ろうなどの経管栄養と経口摂取の併用はできない」と回答した。ケアマネジャーは「デイサービスと同じ条件ならばどうか」と交渉したものの、「うちでは、そういう規則ですから」と譲らない。本人の希望や家族の思いを持ち出してみても「誤嚥(ごえん)性肺炎を起こしたら、誰が責任を取るんですか!」と言われて、一蹴されてしまった。
食べ物や唾液などが気管に入ってしまうことを誤嚥といい、誤嚥が原因で起こる肺炎を誤嚥性肺炎という。高齢者の肺炎の多くが誤嚥性肺炎であり、体力の弱っている高齢者では命に関わることも少なくない。
ちなみに、口から食べずに経管栄養を行っている人でも誤嚥性肺炎を発症することもあり、ショートステイの回答は完全に的を射ているとは言い難い。
◇なぜ、施設でできないのか
ケアマネジャーがその結果を伝えると、直子さんは「自宅でできるものが、なぜ施設でできないんでしょうね」と肩を落とした。
直子さんは歯科衛生士からの指導も受け、口の中を清潔に保つ口腔(こうくう)ケアを心掛けている。口腔ケアは誤嚥性肺炎の効果的な予防法の一つだ。
比較的近距離で利用できるショートステイはその施設しかなく、他に選びようがない。
「せっかく口から食べられるようになったのに、これじゃショートステイに預けられないわ」
あちらではできるのに、こちらではできない。そんなふぞろいのサービスは、在宅で療養生活を続ける高齢者の生活の質(QOL)向上にブレーキをかけている。(了)
佐賀由彦(さが・よしひこ)
1954年大分県別府市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。フリーライター・映像クリエーター。主に、医療・介護専門誌や単行本の編集・執筆、研修用映像の脚本・演出・プロデュースを行ってきた。全国の医療・介護の現場を回り、インタビューを重ねながら、当事者たちの喜びや苦悩を含めた医療や介護の生々しい現状とあるべき姿を文章や映像でつづり続けている。中でも自宅で暮らす要介護高齢者と、それを支える人たちのインタビューは1000人を超える。
(2023/09/12 05:00)
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