女性アスリート健康支援委員会 諦めない心、体と向き合うプロ意識

アトランタの「ミッション・インポッシブル」
控えの司令塔、大逆転導く―ヨーコ・ゼッターランドさん

 バレーボール選手としての夢を懸け、日本から出生地の米国へ渡り、二大会連続の五輪出場を果たしたヨーコ・ゼッターランドさんの好きな言葉は「不可能を可能に」。2度目の五輪となった1996年のアトランタ大会の鮮烈な体験が強固にした信条だ。「成功するかしないかは、やってみないと分からない。どうして成功するんですか、と聞かれたら、成功するまでやめない、と言うしかないんですよね」と話す口調にも迷いはない。

 アトランタ五輪の日本戦で逆転勝利後、声援に応えるヨーコ・ゼッターランドさん(本人提供)
 92年のバルセロナ五輪で米国チームの銅メダルメンバーとなったゼッターランドさんは、大会が終わった時から4年後のアトランタを見据えた。米国にとっては、84年ロサンゼルス大会以来の地元開催のオリンピック。個人的にもメンバー入りを果たせば、27歳という選手として脂の乗った時期に迎える。「今度は控えセッターではなく、試合の最初から出る正セッターとして出場して、金メダルを取るという目標が明確になりました」

 だが、アトランタ大会の米代表メンバーに選ばれ、いよいよチームが始動した時、監督から個人面談で告げられたのは「控えセッターとして役割を果たしてほしい」という、ゼッターランドさんにとっては非情な通告だった。「4年間、正セッターで金メダルを、という夢のためだけにやってきたので、やはり落ち込みました」と振り返る。

 ◇手に「不可能を可能に」の文字

 それでも、チームメートのアドバイスや心理学の専門家のカウンセリングを受けたゼッターランドさんは、プロフェッショナルとして自らの役割に徹し、チームに貢献するんだと、気持ちを切り替えることができた。

 好きな言葉は「不可能を可能に」。「成功するかしないかは、やってみないと分からない」と話すヨーコ・ゼッターランドさん
 「最初からコートに立つ、立たないにこだわるのではなく、オリンピックという大舞台に立った瞬間、自分は何がしたいのか、それができたかできなかったのかに、焦点を当てて、時間を大事にするようにした。私はチームが負けているときに、コートに投入されることが多かった。それが自分の請け負う役割であれば、チームの一員として責任を果たそうと思いました」

 いよいよアトランタ五輪が開幕し、予選リーグの試合でベンチスタートのゼッターランドさんが自分の手に書くようになったのが「不可能を可能に」という言葉だ。「どういう状況であっても、自分自身がダメだと思わない限り、100%ダメということはない。99.9%ダメでも、まだ0・1%は可能性がある」と、前を向く気持ちを込めた。

 「恥ずかしいから日本語で書いたんですけれど、チームメートに『何て書いてあるか分からない』と言われて(笑)。『エニシング・イズ・ポッシブル』という言葉も書きました」。その言葉を体現したのは、予選リーグの第4戦、2勝1敗同士でぶつかった日本戦。ゼッターランドさんにとって因縁の対決は、両チームの予選突破の行方を左右する試合だった。

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