女性アスリート健康支援委員会 女子マラソンの夜明けを駆け抜けて

晴れの五輪「人生最大のショック」に
引きこもり、摂食障害も―増田明美さん

 「人生で一番苦しかったのは、あのロサンゼルス五輪の失敗でした」。スポーツジャーナリストの増田明美さんは、あくまで明るく話す。川崎製鉄千葉に入社し、高校時代からの恩師、滝田詔生(つぐみ)監督と二人三脚で見事、初の女子マラソン五輪代表入りを果たしたものの、本番のレースでは途中棄権した。日本のトップへ一気に駆け上がり、大きな喜びを感じた分だけ、挫折による心身のダメージも尾を引いた。

 「ロス五輪の時は20歳で、本当に幼かったですね」と振り返る増田明美さん
 18歳の最初のフルマラソンで日本記録を出してから「大失敗」に至るまで、2年余りの起伏も激しかった。2回目のレースは1983年1月の大阪国際女子マラソン。体の不調を感じたままレースに臨み、10キロ地点で先頭集団から遅れると、14キロ付近で目の前が暗くなり、倒れ込んだ。棄権を余儀なくされ、病院へ。発表された診断結果は「一過性の脳貧血」だった。

 「本当は栄養失調だったんです。滝田先生が『戦時中じゃあるまいし、栄養失調なんて発表できない』と言ったから、脳貧血という発表だけになりました」。マラソンを意識した厳しい練習を続けていたのに、食事量が少な過ぎたのだ。

 今でもよく覚えているのは、そんな食生活を続けていた時も、実家の母が送ってくれた缶入りのゆで小豆を、間食で食べたことだ。「先生の奥さまが出した食事を残しても、ゆで小豆を自分の部屋で食べて。もう体が枯渇状態で、甘い物への執念があったんでしょうね」

 ◇宗兄弟に食事と練習姿勢学ぶ

 退院後、しばらく実家で静養した。「競技をやめたい」という思いまで頭に浮かんだ増田さんに、「マラソンの専門家に教わった方がいい」と、救いの手を差し伸べたのが、滝田監督の知り合いだった旭化成の広島日出国監督だった。双子の名ランナー、宗茂、宗猛の兄弟選手がいた実業団チームの名監督だ。その年の春、増田さんは旭化成の地元宮崎で、宗兄弟と一緒に練習する機会に恵まれた。常に汗をかいて体重を落とそうと気負い、重ね着していた増田さんとは対照的に、宗兄弟は薄着で楽しそうに走っていた。

 双子の名ランナー宗茂、宗猛の両選手と一緒に練習した当時の増田明美さん(右)(増田さん提供)
 宗兄弟のニュージーランド合宿にも同行した。「本当にびっくりしました。宗さんたちは、ビールを飲みながら分厚いステーキを5枚も食べて、それで太らないでしょ。ステーキ1枚でも半分残していた私が間違っていたと、気づかせてくれました」

 練習や食事の意識を改めた増田さんは復調し、ロス五輪の代表選考会を兼ねた84年1月の大阪国際女子マラソンに出場した。4カ月前の米国・オレゴンTCナイキマラソンでは2時間30分30秒と日本記録を更新。その勢いをぶつけ、勝負に臨んだ。トップで独走し、40キロすぎでカトリン・ドーレ選手(東ドイツ=当時)に抜かれたものの、2時間32分5秒の好タイムで日本人最上位の2位に入り、五輪切符をつかみ取った。

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