「医」の最前線 「新型コロナ流行」の本質~歴史地理の視点で読み解く~

ウクライナ侵攻と新型コロナ
~歴史上まれな流行拡大時の戦争~ (濱田篤郎・東京医科大学病院渡航者医療センター特任教授)【第39回】

 2022年2月24日、ロシア軍がウクライナに侵攻しました。ウクライナの北大西洋条約機構(NATO)加盟を阻止するための行動と見られており、国際的な非難がロシアやプーチン大統領に向けられています。そして、時はまさに新型コロナウイルスの流行が拡大中のこと。ロシア、ウクライナともにオミクロン株による感染者数がピークに達しつつある中で、こうした軍事行動が取られたのです。今回は軍事行動が新型コロナの流行に及ぼす影響などについて、歴史をふり返りながら検討してみたいと思います。

ロシア軍による給油所攻撃で黒煙が上がる中、スーパーに並ぶウクライナの人々=2月27日AFP時事

 ◇戦争と感染症の流行

 人類の歴史の中には、戦争中に感染症が大流行した事例が数多くあります。

 例えば、紀元前5世紀に古代ギリシャの覇権を争ったペロポネソス戦争の渦中、アテネで疫病が大流行しました。この感染症が何だったかは今もって謎ですが、市民10万人のうち、約25%が死亡する大きな被害になりました。これが原因でアテネは敗北し、衰退の道へと進みます。

 時を経て、ローマ帝国が最盛期を迎えたマルクス・アウレリウス帝の時代(2世紀)のこと。中東遠征軍の中で発生した天然痘の流行がローマ帝国全体に波及し、皇帝自身もこの病で亡くなっています。14世紀に大流行したペスト(黒死病)も戦争に関係しています。ヨーロッパだけで3000万人以上が死亡した流行は、英国とフランスの間で争われた百年戦争の途中で発生しました。16世紀以降もヨーロッパでは局地的な戦争が繰り返されますが、常に戦場で流行したのが発疹チフスでした。これはシラミに媒介される感染症で、不潔な状態にいる兵士の間でまん延しました。

 こうした歴史上の経験から、戦争に伴う感染症を予防することは、軍隊が勝利を得るための必須条件になっていきます。この予防対策を効果的に実施したのが、19世紀初頭に登場したナポレオンでした。彼は軍隊の衛生面を徹底的に改善し、ヨーロッパに大帝国を築き上げます。しかし、その後のロシア遠征では軍隊内に発疹チフスが発生し、さすがのナポレオンも大敗北を喫するのです。

 ◇日露戦争で日本軍が取った感染症対策

 19世紀後半に微生物学や感染症学が発展すると、軍隊での予防対策に近代科学的手法が導入されるようになります。そもそも、軍隊内で感染症の流行が発生しやすいのは、多くの人々が密に行動したり、不潔な環境の中で生活したりすることが原因でした。こうした感染症発生のメカニズムが明らかになるとともに、ワクチンや抗菌薬が開発され、それを予防や治療に用いることができるようになったのです。

 こうした近代的な感染症対策が奏功したのは、20世紀初頭の日露戦争の時でした。日本陸軍は中国北部でのロシア軍との戦いに当たり、兵士に発疹チフス発生の温床となる村落での宿泊を禁止したり、腸チフスなどのワクチンを接種したりすることで、感染症の発生を極力抑え、見事に勝利することができました。

 その一方、第2次大戦の時の日本軍は、太平洋の島々での戦いに当たり、マラリア予防などの感染症対策を十分に行わず、それが敗戦の原因の一つになりました。

 ◇感染症流行下の軍事行動は不利

 このように歴史上の戦争と感染症の流行をふり返ってみると、いずれも戦争で軍隊が行動を起こした後に感染症の流行が発生しています。一方、今回のロシア軍のウクライナ侵攻は、新型コロナという感染症が既に拡大した状況下に軍事行動を起こしたため、ロシア軍の中で感染者が増えることは確実であり、戦機としては大変に不利です。

 一つ良い例があります。第1次大戦末期の1918年春、ドイツ軍は劣勢となったヨーロッパ戦線で起死回生を図るために大攻勢(カイザー戦)を仕掛けます。しかし、この時はスペインインフルエンザの流行がヨーロッパで拡大していました。ドイツ軍の兵士にも多くの患者が発生したため大攻勢は失敗し、その結果、ドイツは敗北しています。

 今回は新型コロナ流行下にロシアがウクライナ侵攻に踏み切ったわけですが、自軍の兵士に感染者が多発するリスクは当然高まります。ただし、このリスクを下げる方法が一つあります。それはロシア軍の兵士が新型コロナのワクチン接種を十分に受けている場合です。ただし、現在、ロシアで使用されているのはスプートニクVなど国内製造されたワクチンで、世界保健機関(WHO)はその効果を確認できないとしています。接種者のブレークスルー感染も多く、効果が低い可能性があるのです。

 こうした状況から、ウクライナに侵攻したロシア軍がワクチンによって十分に守られているとは言えません。軍事行動が長期化すればロシア軍の兵士の中に新型コロナの感染者が増え、侵攻そのものが失敗することも考えられます。

ウクライナからポーランドへの避難を準備する外国人留学生=2月27日EPA時事

 ◇ウクライナの流行への影響

 ウクライナ側でも、新型コロナの流行が拡大していくことは十分に考えられます。ジョンズ・ホプキンス大学のホームページによれば、現在、ウクライナでは毎日3万人近い感染者が発生しており、毎日200人以上が新型コロナで死亡しています。これは政情が不安定な中で調査された数値なので、実数はもっと多いはずです。

 ウクライナでのワクチン完了率(2回接種者の割合)も35%とかなり低い数値です。これから侵攻が拡大していくと、社会インフラが次々に破壊され、ワクチンの接種率の向上はまず望めそうにありません。さらに、ウクライナ国民にとっては、ロシア軍の攻撃で受ける被害の方が新型コロナよりも深刻であり、それだけ新型コロナの予防対策がおろそかになっていくでしょう。この結果、ウクライナでの新型コロナの感染状況は、さらに悪化すると予想されます。

 ◇ヨーロッパ全体の感染状況に影響も

 新型コロナの流行拡大はウクライナだけにとどまりません。現在、戦争から逃れようとするウクライナからの難民が、ポーランドなど近隣諸国に押し寄せています。こうした難民の間で新型コロナの流行は拡大しやすく、それが難民を受け入れる国の住民にも広がっていく可能性があります。世界的にはオミクロン株の流行が落ち着きつつありますが、東欧諸国では流行がピークを越えたばかりです。今後、難民の流入が東欧のみならず、ヨーロッパ全体の流行再燃を起こすことも懸念されています。

 ロシアによるウクライナ侵攻が国際法に違反した暴挙であることは明らかです。私たちはそれを非難するだけではなく、被害を受けているウクライナ国民を、新型コロナ対策などで支援する動きが必要だと思います。例えば効果の高いワクチンを送ることも一つの方法です。そして、こうした国際支援の動きは、戦争と感染症への新たな対応として、歴史の中に記録されることでしょう。(了)

濱田篤郎 特任教授


 濱田 篤郎 (はまだ あつお) 氏

 東京医科大学病院渡航者医療センター特任教授。1981年東京慈恵会医科大学卒業後、米国Case Western Reserve大学留学。東京慈恵会医科大学で熱帯医学教室講師を経て、2004年に海外勤務健康管理センターの所長代理。10年7月より東京医科大学病院渡航者医療センター教授。21年4月より現職。渡航医学に精通し、海外渡航者の健康や感染症史に関する著書多数。新著は「パンデミックを生き抜く 中世ペストに学ぶ新型コロナ対策」(朝日新聞出版)。

【関連記事】

「医」の最前線 「新型コロナ流行」の本質~歴史地理の視点で読み解く~