女性医師のキャリア

男性社会を強く生き抜く女性外科医
~ポジティブ思考の源を探る~ 女性医師のキャリア 医学生インタビュー

 女性の社会進出が進み、さまざまな分野で女性の活躍が期待される時代となった。幼少時から病気と闘い、ポジティブに生きる術を身に付けた児玉ひとみ医師は、男性中心だった外科医の世界に飛び込み、子育てをしながら見事にキャリアアップを成し遂げた。厳格だった父と家庭を支えた母から多くのことを学び、マザー・テレサから大きな影響を受け、あるべき医療や女性が働きやすい環境整備に向けて挑戦を続けている。

児玉ひとみ医師

児玉ひとみ医師

 ◇医師は発作を止める神様のような存在

 私は3歳ぐらいからぜんそくを発症し、かなりひどい発作を繰り返しました。苦しくて泣いてしまうと、もっと苦しくなるので、どんなに苦しくても泣かないように我慢していました。夜、横になると苦しくなるので、発作が治るのを待って朝まで座って眠ることもありました。小学校には片道50分の道のりを発作に耐えながら通い、水泳を習ったり、吹奏楽部でトロンボーンを吹いたり、呼吸器系を鍛えるように心掛けました。子供時代の原体験により忍耐力が養われたと感じています。

 病気と闘う日々を送る中、信頼していた小児科の先生が聴診器を胸に当てるだけで呼吸が楽になる気がしていました。当時の私にとって、医師は包容力があり、発作を止めてくれる神様のような存在であり、次第に医師という職業に憧れるようになりました。

 ◇女性が1人の人間として生きるには

 私の母は歌が好きで、音楽の先生になりたいという夢がありましたが、事業を始めた父を支えるために自分の夢は胸にしまい、家族に尽くしてきました。私が小学校に上がると地域で歌の教室を始めましたが、父がいる時間に家を空けたり、家事がおざなりになったりすると父が不機嫌になるため、常に父の顔色をうかがいながら、ほそぼそと教室を続けていました。女性だからという理由で自己実現が阻まれ、女性だけに家事育児が押し付けられる。厳格な父の意に沿うよう苦労してきた母を見て育ち、女性は経済的に自立しないと発言権を得られない、社会的に重要な職業に就くことで、一人の人間として意思を尊重されるのではないかと考えるようになりました。

 ◇つらい現実に直面し、救いを求めてインドへ

 父は大学で繊維の研究をした後、働きながら夜間大学で学び直し、システム開発のベンチャー企業を立ち上げました。事業は順調に拡大していきましたが、私が医学部在学中にバブルが崩壊、父は社員をリストラせざるを得ない状況に立たされました。アルコール依存を伴う、うつ病となり、ほとんど仕事ができない状態になったのです。

 私はつらい家族の現実と向き合うことが苦しく、医師として、病む人にどのように向き合っていけば良いのか考え込むようになりました。救いを求めるような気持ちで訪れたインドのマザー・テレサの施設。道端で倒れている人を収容して、みとりの時まで寄り添う「死を待つ人の家」では、シスターが身よりのない瀕死(ひんし)の人の汚れた身体を拭き、わずかなパンとスープを口元に運ぶと、深い孤独の色をたたえた瞳の奥に、いさり火のような最後の光がかすかにともったようにも見えました。

 親のいない孤児が暮らす施設では、マザーハウスの前に捨てられていた500グラムの未熟児が、簡素でも清潔なベッドで静かに眠っていました。高度な医療のないこの環境では、あしたまで生きることは難しいでしょう。その隣では、人の腕に抱かれることを求めて激しく泣く子どもがいます。抱き上げるとピタッと泣きやみ、ベッドに戻すとまた泣きます。足元には下半身が変形して歩けない子が腕だけではってきて、自分も抱っこしてほしいと私の片足にしがみついて離れません。提供できる医療がない現場で、シスターや世界中から集まったボランティアが心を込めて世話をしていました。

左上 河野恵美子医師、右上 白川礁さん、下 児玉ひとみ医師

左上 河野恵美子医師、右上 白川礁さん、下 児玉ひとみ医師

 ◇身近で悩み苦しんでいる人を大切にする

 ここでは既存の価値観が激しく揺さぶられ、貧困の中にあるインドの人たちの力強さ、先進国で暮らす、われわれの幸福の脆弱(ぜいじゃく)さを思い知り、何かを与えるつもりのボランティアたちは逆に大きな気付きを与えられます。マザー・テレサは「貧困は豊かな国の人々の心の中にもあり、最も不幸なのは誰からも愛されず必要とされないことである」と述べています。シスターは「まずは身近に苦しみ悩んでいる人へ献身的に奉仕をするように」と言われました。日常の一つ一つの小さな行いを大切にし、一人一人の患者さんに対して自分が最も大切にされていると感じられるよう、真心をこめて診療を行っていこうと強く思いました。

 ◇ホルモンを手術でコントロールする

 私は手作業で何かを作ることがすごく得意で、外科が一番面白いと思い、外科医になることは学生の比較的早い段階から決めていました。研修医2年目の時、非常に希少なMEN(多発性内分泌性腫瘍症)の患者さんを担当したことがきっかけで、内分泌外科に魅了されました。

 人の体は目には見えないホルモンによってコントロールされています。内分泌外科は、このホルモンを分泌する臓器を扱う診療科です。例えば、副甲状腺という臓器は甲状腺の背側に位置する米粒大の臓器ですが、腫瘍ができて副甲状腺ホルモンを過剰に分泌すると、血液中のカルシウムが過剰になり、さまざまな不調が起こります。非常に小さな病変なので頚部の細かい神経や血管を損傷しないよう、1センチ程度の小さな腫瘍を探し当てて摘出するのは非常に専門的な技術と経験を要します。手術が成功すると患者さんの体調が劇的に良くなるので、とてもやりがいを感じます。人の感情や行動に影響を与えるホルモンを手術によりコントロールし、その人の人生を良い方向に変えていく。私自身がストレスを客観視してコントロールするやり方と似ているかもしれません。

女性医師だけで手術することも多くなった

女性医師だけで手術することも多くなった

 ◇夫と別れ、1人で娘を育てる決意

 後期研修医の時にパートナーと出会い、娘を出産しました。苦境の中、学費を工面してくれた親をがっかりさせたくないという思いから、仕事をペースダウンする選択肢はありませんでした。お互い多忙で価値観の相違が広がり、信頼関係は崩れていきました。つらい気持ちを抱えたまま娘を育てるよりも、生き生きとした姿を見せて育てたいと考え、夫と別れて1人で娘を育てる決心をしました。大学に併設された保育園に朝7時から夜10時まで娘を預け、男性と同じような働き方に自分を適応させ、当直のときには院内の夜間保育に娘を預けて授乳にも通いました。

 娘は同じような境遇の保育園の仲間と兄弟姉妹のように過ごし、母の助けも借りて、心身共に健やかに育ってくれました。一緒に過ごす時間は短くても、送り迎えの時間や休日にたっぷり愛情を伝えるように工夫しました。自宅にいるときは家事が娘との遊びになるようにアレンジし、娘の3歳の誕生日に子ども用の調理器具を与えたら一緒に料理をするようになりました。

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