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~旧制大学の門柱に原爆の痕-長崎大学医学部~
原爆で傾いた門柱
◇原爆で多くの教職員や学生が犠牲
長崎大学医学部の前身だった長崎医科大学は、1945年8月9日に投下された原子爆弾で壊滅的な被害を受けた。爆心地は大学から約600メートル。当時の学長をはじめ、教職員や学生を含む関係者898人が犠牲となった。大学の正門にあった石造りの門柱は爆風によって9センチずれた。傾いた門柱は、現在周囲を柵で覆われ、大学の南東入り口に保存されている。
「当時は顕微鏡さえもなかったため、九州大学に移られた先生から顕微鏡を送ってもらったそうです」
その時に寄贈されたカールツァイスの顕微鏡は、今も大事に保管されている。
「原爆で焼けてしまって、長崎大学には古い本や資料がほとんどありません。法医学の本も無かったので、他の大学から譲ってもらったと聞いています。先人の血のにじむような努力があったからこそ、今の自分たちがあるのだと自覚しています」
原爆投下という悲劇を乗り越え、長崎大学医学部は復興し、原爆後遺症に関する地道な研究を続けてきた。被爆者の好発疾患を研究し「原研内科」と呼ばれていた血液内科もその一つだ。
「原研(長崎大学原爆後障害医療研究所)での長年にわたる研究があったからこそ、福島で起きた原発事故では尽力できたのだと思います」
長崎大学では、1年生から長崎の医学の歴史教育が行われている。
「国家試験に合格するということだけではなく、他人の心をくみ取れる医師、病める人のために頑張れるような医師になってほしいと思っています」
大学の正面玄関ロビーには創設者ポンペの言葉であり、建学の基本理念でもある「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい」が掲げられている。(ジャーナリスト/美奈川由紀)
池松 和哉(いけまつ・かずや) 1996年長崎大学医学部卒業。2000年長崎大学大学院医学研究科博士課程(社会医学系)修了。04年長崎大学大学院医歯薬学総合研究科助教授、13年から同教授。22年10月より現職。
【長崎大学医学部沿革】
1857年 長崎奉行所西区役所の一室に医学伝習所を開始
61年 長崎大学病院の起源である養生所開設
65年 養生所を精得館と改称
68年 精得館を長崎府医学校並びに病院と改称
69年 長崎県病院医学校と改称
71年 長崎県病院・長崎医学校と改称
75年 長崎病院と改称
87年 長崎県立長崎病院と改称
1903年 長崎県立長崎病院附属看護婦養成所を設置
22年 官立長崎医学専門学校附属医院と改称
23年 長崎医科大学附属医院と改称
45年8月 長崎市に原爆投下
45年10月 医科大学附属医院を開設して診療を開始
49年 長崎大学医学部附属病院と改称
2004年 国立大学法人長崎大学に変更
09年 学部附属から大学直轄となり、長崎大学病院と変更
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(2023/02/01 05:00)
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