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よき臨床医を育てる
~卒前卒後のシームレスな教育―日本大学医学部~

 日本大学医学部は1925年に日本大学専門部医学科として東京都千代田区神田駿河台に開設された。その後、板橋区に本拠地を移し、2025年に創立100周年を迎える。医学・医療に光を当て、博愛の心で病める患者に真摯(しんし)に向き合う「醫明博愛(いみょうはくあい)」を教育理念としている。日本大学は前理事長の逮捕という不祥事を経て、新執行部が7月から始動したばかり。木下浩作医学部長は「これからは開かれた大学を目指していこうという機運が大学全体で盛り上がっています。今後、伸びていく将来像が新体制の中でも強調されていますから、大いに期待していただきたい」と前向きな姿勢を示す。

木下浩作医学部長

木下浩作医学部長

 ◇学部の垣根を越えた連携を強化

 日大医学部は開設以来、一貫として「よき臨床医の育成」を目指し続けてきた。ただし、臨床に特化して研究をないがしろにするというわけではない。

 「よき臨床医を育成する背景には、よき研究者が必要。医学的研究の土台に臨床があり、最終的には患者のためになるということ。その理念が長年変わらずに受け継がれています」

 大規模総合大学の強みを生かし、医学部と他学部の垣根を越えた連携を強化している。新型コロナウイルス感染症の消毒ロボットの開発や、ICT(Information and Communication Technology)を活用した遠隔治療システムなど、いくつものプロジェクトが始動中だ。

 「単一学部では頭打ちになっていた研究が他の学部と合わさることで、ものすごく可能性が広がっていくことを感じています」

 特に木下医学部長が期待しているのは、医療過疎地でのICTの活用だ。

 「ICTというと難しい治療ばかりが注目されますが、夜間休日の救急医療での活用も必要です。例えば、救急で病院に専門医がいない場合、患者さんが夜中に何十キロも離れた病院に行かなくてはいけない場合があります。ICTで専門医とつながってコンサルテーションするシステムができれば、地域の患者さんはかなり助かる。緊急会議がWEBでできるコロナの時代になって痛感しています」

医学部本館

医学部本館

 ◇自主創造ができる人

 学生に期待することは、大学の教育理念でもある「自主創造」ができる人だという。

 「医学そのものは日々進歩していますから、医師国試に合格したら終わりではありません。自分で勉強して成し遂げていくことが確実に求められます」

 入学試験で自主創造ができる学生を選ぶのは至難の業だという。どの学生も予備校で面接指導を受けて来るからだ。

 「優等生的な回答は全くつまらないし、参考になりません。もう面接は必要ないのではという意見もあるくらいです。結局は入学してからの教育が一番重要。ただ、自分が面接して選んだ学生を教育しているという教員のモチベーションにつながるというメリットはあります」

 21年から日大OBが多い地域として、埼玉県地域枠を導入、救急、小児科、産婦人科系を中心に医師不足が深刻な地域医療の担い手を育成する。

 ◇保護者にも開かれた大学をアピール

 開かれた大学を目指して、学生だけでなく保護者への対応も充実させている。希望者には現状説明会を行い、学生も交えた三者面談を行う場合もある。

 入学後すぐに行う医学序論では医師、看護師、薬剤師、上級生など多職種が参加、チームで心肺蘇生法を実習する。その様子を撮影し、プリントした写真に手紙を添えて実家に郵送するというサービスを行ったところ、保護者から好評を得た。

 「親からすれば、自分の子どもが医学部に入って実習している姿を見られたら、うれしいだろうなと思って。コロナや大学にさまざまな問題があって、親も心配しているんですよね。家族が安心してくれたらいいなと思います」

板橋病院正面

板橋病院正面

 ◇関連病院とともに医師を育てる

 日大医学部は関連病院が多く、研修先の選択肢が非常に多い。大学が医師不足で卒前の病院実習を行えない診療科も出てきているため、関連病院がその役割を担っている。

 「大学がマンパワーとして医師を派遣するのではなく、関連病院と大学が一緒に医師を育てていくという視点が必要です。臨床実習でその病院の良さを知った学生が、卒業後は研修先として選び、定着していくという流れにしていきたい」

 学生にとっては、早くから将来の働く場を体験できるというメリットもある。卒前卒後のシームレスな教育方法として、関連病院も含めた屋根瓦教育が有効に機能している。

 ◇救急医療の現場に魅せられて

 木下医学部長は和歌山県の出身。父親は外科の開業医だった。日大医学部に入学、地元に戻ることは考えず、救急集中治療医の道を選んだ。

 「1990年代の初めの頃は、交通事故の死者が年間1万5千人を超えていて、毎日のように交通事故の患者の手術が救命センターで行われていました。手当が遅れたら命が無い患者さんが、治療によって助かって元気に退院していく様子をずっと見ていて、すごくやりがいを感じました。いつ呼ばれてもいいように、いまだに家ではお酒は飲まないんですよ。家内からは『一人暮らししてるみたい」とよく言われます」

 2000年に米国のマイアミ大学に1年間留学し、ラットの頭部外傷モデルを使った基礎研究に取り組んだ。

 「基礎研究のものの考え方は非常に重要なので、それが養われた1年だったと思います。環境に恵まれ、日本に帰国後も研究を続けて来ることができました」

 臨床研究では、CTでは所見が見当たらないのに意識不明の状態が続き、最後は植物状態になる頭部外傷患者の病態解析に取り組んだ。当時はまだ珍しかったMRIを全例に施行し、病態のメカニズムを解析した。

 「脳外科、神経内科では脳を中心に診ますが、救急医である私たちは全身が脳に与える影響は何かを診ます。手術が成功し、一命を取り留めるだけでなく社会復帰をしてもらいたいので、最終的な転帰を良くするには何が必要か、脳だけの視点ではなく、全身の視点から診る。これが救急集中治療領域の医師が目指すものです」

笑顔でインタビューに答える木下医学部長

笑顔でインタビューに答える木下医学部長

 ◇知識を蓄え、常に前に一歩踏み出す姿勢を

 研修医時代、指導医から常に「その日何を発見したか」を問われたという。

 「『変わりなかったです』と言うと、『それは患者さんが全然良くならなかったということだ、主治医は常に変化を捉えていかなければならない』」という指導医からの言葉を今も心にとどめている。

 これからの医学生に望むことは、常に前向きな姿勢を持ち続けることだ。

 「常にどうすれば良くなるかを考えてほしい。困難に直面したとき、難しいなと思った段階で終わりなんです。どうすれば乗り越えられるのかと視点を変えなければ前に進めません」

 知識を蓄え、常に一歩前に踏み出す姿勢を忘れずに引き継いでいってもらいたいと、医学生の未来に思いをはせた。(ジャーナリスト/中山あゆみ)

 木下 浩作(きのした・こうさく) 1987年日本大学医学部医学科卒業。91年同大大学院医学研究科博士課程修了。95年医学部付属板橋病院救命救急科医長。講師、准教授を経て、2010年11月同大医学部診療教授。22年から現職。

【日本大学医学部 沿革】
1925年 日本大学専門部医学科を駿河台に開設
  26年 附属駿河台病院開院
  35年 附属板橋病院開院
  45年 戦災で附属板橋病院全焼
  48年 附属板橋病院復興
  52年 新学制による医学部医学科への移行認可
  56年 大学院医学研究科設置
  63年 附属駿河台病院新築落成開院
2014年 駿河台日本大学病院から日本大学病院へ新築移転

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