一流に学ぶ 天皇陛下の執刀医―天野篤氏

(第1回)手先器用なプラモ好き =実家は燃料店、教育熱心な母

 「ガソリンが揮発油と言われていた時代で、手回しの計量機を使っていました」ー。戦後復興の息吹が残る1955年10月18日、天野篤氏は埼玉県蓮田市で燃料店を営む夫婦の長男として生まれた。

三輪車にまたがる天野氏。当時3歳だった
 エネルギーの主役が、石炭から石油に移行した時代。家庭でもLPガスが使えるようになった。天野氏は「ガスが切れたという連絡が入ると、父が軽トラックで送り届ける。時々、僕も一緒に乗って行きました」と振り返った。

 母親は戦時中に婚約したが、相手の海軍中尉は戦死。見合いの末、婿養子に入ったのが父親だった。父親は29歳、母親は32歳。当時の女性としては遅い結婚だが、翌年に天野氏が誕生し、その後、妹と弟が生まれた。

 多くの外科医と同じように、子どもの頃から手先は器用だった。

 「小学生の頃は軍艦や戦車のプラモデルをひたすら作っていました」。人気の特撮人形劇「サンダーバード」の機体、ジュール・ヴェルヌのSF小説「海底二万里」に登場する潜水艦なども「好きでしたね」と話す。

 小遣いをもらうと、すぐにプラモデルを買いに行き、母親から「また買ってきたの?」とよく言われた。プラカラー(プラモデル用塗料)を塗って完成させた潜水艦の模型を川に持って行き、目的地点まで到達させるためには、どうやって気密性を保たせればいいかをよく考えたという。

 「潜水艦は一つ間違ったら海の藻くずになってしまう。すごい乗り物だって思っていました」と振り返る。「あの頃から、あえて楽勝な道に行かないで(潜水艦に乗っているように)スリリングな道を選ぶ、外科医としての傾向が芽生えていたのかもしれませんね」。

 小学5年の時、貯金がたまったら家を建て替えるという両親の話を聞いて、自ら「設計図」を描いた。建築士になりたいという夢もあった。

 家の建て替えが実現したのは72年。「僕は高校2年でしたが、描いた図面通りの家でした。和室、リビング、ダイニングルームがあって、2階に子ども部屋が三つ。ベランダで夕涼みできるように考えたのですが、実際は洗濯干し場になりました」と笑う。

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