一流に学ぶ 天皇陛下の執刀医―天野篤氏

(第1回)手先器用なプラモ好き =実家は燃料店、教育熱心な母

 小学校は地元の公立だったが、成績はずば抜けていた。「全国統一テストみたいものがあって、埼玉県内で2番でした」と天野氏。「小学5年ぐらいから近視が進み、夕方は黒板の文字が見えにくくて、隣の女の子が書き写す問題を見せてもらっていた。その子が書いている途中で僕はもう答えが分かってしまう。解答はいつも一番早かったのを覚えています」

 学科だけでなく、体育や家庭科、音楽の成績も優秀で、埼玉大学教育学部付属中学に進学。「母親に半分だまされました。プールで泳ぐのが好きだった僕に『地元中学にはプールがないから、水泳が上手にならないよ』と母親は言い、それで立派なプールがある学校で夏に水泳がいっぱいできたらいいな、と思って受験しました」

 小学校の卒業式で、母親は父母を代表して謝辞を述べた。華道の家元として、PTAの中にも弟子が多く交友関係も広かった。「教育熱心で息子の成績を言いふらしたいタイプ。周囲から『神童』と言われ、自慢の息子だったと思います。僕が高校に入学するまではね」と話す。

 高校時代に成績が急降下し、卒業後は3年間浪人生活を送るなど、自身にとっての「暗黒時代」が続いた。心臓外科医として注目され、順天堂大学教授になった頃には、母親の認知症が進み、(再び自慢できるようになった)息子の顔も分からなくなってしまったという。

 「天皇陛下の手術のことも分かっていたら、すごく喜んだでしょうね」。母親は昨年、93歳で他界した。天野氏は「親孝行したい時には親は無し、とはよく言いますよね」と話した。(ジャーナリスト・中山あゆみ)

→〔第2回へ進む〕スキー没頭、成績急降下 =高校からは「暗黒時代」

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