わが国は1998年より14年連続して自殺者の数が年間3万人を超えていましたが、その後は減少が続きました。しかし新型コロナが流行した2020年には減少が止まり、女性ではわずかですが増加に転じました。わが国は諸外国と比較しても自殺死亡率は高く、一時より減ったとはいえメンタルヘルスの問題は引き続き深刻です。その原因としては健康問題が最多で、経済・生活、家庭に続いて職業が関連する自殺も少なくありません。
今日ストレスを感じる労働者の割合は年々増加傾向にあり、職場のメンタルヘルス対策は、もっとも重要な課題となりつつあります。メンタルヘルスというと精神科医が専門ですが、実は臨床精神医学の診断の基本になるアメリカ精神医学会が作成している診断基準(DSM-Ⅴ)の考えかたは、精神疾患の病因や原因を問わずに、精神疾患の客観的な症状だけに注目して診断します。主観や情報のかたよりの影響を受けやすい病因論を排するこの診断法は、診察室での診断には有効ですが、職場のメンタルヘルス対策としては不十分です。睡眠時間を削るような長時間残業が続き、うつ状態におちいった労働者に抗うつ薬を処方するだけで、長時間残業を減らさなければ問題は解決しません。
そこで、厚生労働省は2006年「労働者の心の健康の保持増進のための指針」を発表しました。それによると、①本人がメンタルヘルスの維持に十分注意を払うこと(セルフケア)、②企業の上司や仲間が心掛けること(ラインによるケア)、③事業所内の産業医や保健衛生スタッフのはたらきかけ(事業場内産業保健スタッフによるケア)、④事業所外の相談機関や医療機関の利用(事業場外資源によるケア)、という4部門からの総合的な対策(4つのケア)があげられています。
さらに2015年からは、一定規模以上の事業所では、従業員にストレスチェックの機会を年1回以上提供することが義務づけられました。この制度はメンタルの状態を調べることが目的ではなく、本人の気づきをうながし、また職場の問題を発見して対処することが目的とされていますが、その有効性については今後の推移をみる必要があります。
しかしこれらの制度に加えて、もっとも身近にいる家族の役割がきわめて大きいことはいうまでもありません。特に最近は、メンタルの問題がからだの不調としてうったえられることが多くあります。家族の気づきが早期の対処につながる可能性があります。
(執筆・監修:帝京大学 名誉教授〔公衆衛生学〕 矢野 栄二)