業務上疾病と労働災害補償保険

 会社で働いている人が、その仕事に関連して負傷、疾病、障害をこうむったり死亡すれば、労働災害補償保険法にもとづく労働災害補償保険(労災保険)が給付されます。給付の対象には通勤途上の災害によるものも含まれます。
 労災保険は強制加入であり、その保険料は全額会社負担で、労災に対する診察や治療のための療養費は医療保険とは異なって、患者の自己負担はありません。時には、本来労災保険で支払われるべき事故や業務上の疾病について、健康保険を使うよう会社から求められることがありますが、これは違法です。労災保険では療養費に加え、休業補償、障害補償、死亡災害の場合の遺族補償もあります。
 ただし、業務災害または通勤災害による傷害や疾病などに対し、労災保険の給付を受けるためには、労働基準監督署長により業務上災害・疾病として認定されることが必要です。業務上であるか否かの判断は、裁判などのあらそいになることがあります。
 労災保険の対象として認定される業務上疾病者数は過去20年間7000~8000人で横ばいでしたが、2020年には新型コロナウイルス感染にからみ倍増しました。それ以外でもっとも多いのは「負傷に起因する疾病」で、その多くはいわゆるぎっくり腰などの急性腰痛症です。これに騒音性難聴などの物理的因子による疾病が続いています。また最近は、過重労働によるうつ病やメンタル原因の自殺などで、いわゆる過労死と認定される労災もふえています。

■雇用形態と過重労働の問題
 今日わが国の非正規雇用者は2000万人を超え、全雇用者に占めるその割合は40%に迫っています。非正規雇用といっても、それにはさまざまな形があります。基本的には「フルタイム」「終身」「直接」の伝統的な正規雇用に対して、短時間の「パートタイム」、期間限定の「契約」、そして雇用者と使用者が異なる「派遣」が含まれています。これら非正規雇用労働者の賃金は全体では正規労働者の3分の2に過ぎず、労働条件や福利厚生施策も劣り、それらはしばしば社会問題として論じられてきました。そこで2018年の法改正で「同一労働同一賃金」の原則が定められ、同じような仕事をしながら賃金や手当が雇用身分によって同じでない場合は、その差を設ける合理的な理由を説明することが求められるようになりました。非正規雇用が労働者の健康にどう影響するかという点で、給与の差というのはもっとも大きな要素ですが、身分不安定による将来への不安、心理的な差別、分断なども関係していると思われます。しかし、これらのことについて実情を調べた研究はけっして多くはありません。2020年、2021年の新型コロナウイルス感染症の流行に関係して完全失業者が30万人ふえたというような報道がありました。しかしここには失業しても求職活動をしない人は含まれないなど過小評価が懸念されます。新型コロナウイルスの影響の直撃を受けた飲食業、旅行業などは雇用保険にも入っていなかった非正規雇用者が多く、その実態は必ずしも表面化していません。総務省統計局の労働力調査で見ると2020年の緊急事態宣言前後で女性の非正規雇用者が100万人以上減少しており、コロナ禍の雇用に対する影響は公的な発表より大きく、かつ特定の集団に集中していることが読み取れます。そしてそれは2020年の女性の自殺者数の増加と関連している可能性があります。
 いま、労働に伴う健康の問題として長時間労働・過重労働が大きな問題になっていますが、非正規雇用は過重労働の問題と密接に関係しています。すなわち、正規労働者の長時間労働でも処理しきれない過重な業務への対応のために、賃金の安い非正規労働者が導入されてきた経緯があります。しかし、非正規雇用労働者の導入は必ずしも正規労働者の労働負荷の減少につながらず、むしろ賃金や待遇の格差による労働者どうしの軋轢(あつれき)などの問題も発生しています。非正規雇用は労働者の団結を弱体化させ、経営者との交渉力を弱め、結果としての労働者の権利保護にとっての障害になることを国際労働機関(ILO)は指摘しています。
 こうした雇用身分の多様化に加えて、今日産業現場では就労状況の多様化が進行しています。9-17時の定型的な勤務時間に対して就業時間帯を自由に変えられるフレックス勤務、1日の就業時間を8時間+残業時間の実績ではなく、あらかじめ固定した残業時間相当分を加えたみなし就業時間として、働く時間や時間帯を本人が裁量できる裁量労働制、インターネットを使った在宅やリモートオフィスでのテレワーク、身分は元のままで他の会社の業務の一部を請け負う業務委託や外注。そして、まったく別の会社で別の業務をおこなう副業などです。
 インターネットが生活と労働のあらゆる場面に入り込み、仕事の中身も以前とは大きく変化しつつある現在、こうした多様化はある意味当然のことかもしれません。その結果、通勤時の混雑が緩和され、自宅での育児や介護の空いた時間に会社の仕事をするなど、ワークライフバランス実現に寄与するかもしれません。しかし、裁量労働では過大な業務量のため長時間の所定外勤務をしても残業手当はつかず、テレワークでは業務のために深夜早朝も含め24時間の対応が求められる一方、移動や顧客対応でパソコンを使わない時間の労働は労働時間として計上されにくくなりがちです。委託業務では、業務を発注した企業の従業員が受注企業の従業員に対して優位な立場となり、自社内ではけっして起こらないようなハラスメントがおこなわれることがあります。副業も、会社が従業員の自主性を尊重したのではなく、単に成果を上げられない従業員を半解雇する手段に用いられることがあります。加えて、副業中や副業先への移動中に発生した労働災害について、どちらの企業が責任を取るのかは判断がむずかしく、問題になります。
 2018年の国会で成立した働き方改革関連法は、残業時間の上限規制をおこなうとともに「同一労働同一賃金」を進め、今日の労働現場の問題を解決する画期的な意味合いを持つことが期待されます。しかし同時に、上で述べた残業時間が過小評価されがちな裁量労働制や、時間規制が一切ない「高度プロフェッショナル」制度も導入され、今後その対象が拡大されて、なし崩し的に多くの労働者が労働時間規制のない過重労働を強いられる懸念があります。そして、こうした過重労働による健康障害対策としては、産業医面接や臨時の健康診断が定められていますが、企業はこの産業医面接や健康診断さえ実施していれば良いとして、業務自身の見直しをしない安易な過重労働対策に走る可能性があります。
 働き方改革関連法で始まった残業規制は1カ月ごとの残業時間を問題にしますが、人間は月単位で寝だめをすることはできません。そこで人々の生活により即した管理としては、勤務間インターバルの確保があります。1日の勤務終了後、翌日の出社までの間に、一定時間以上の休息時間(インターバル)を設けることで、働く人の生活時間や睡眠時間を確保するものです。ヨーロッパでは、労働者は一日の労働時間の終了後、原則として最低11時間の休息時間をとることが規定されている国が多くあります。このインターバル時間の間には、出退勤の通勤時間や入浴、夕食・朝食などの生活時間とともに睡眠時間も含まれるので、通勤時間が長いことの多い日本では、もっと長い勤務間インターバルが必要かもしれません。しかし働き方改革関連法の導入が議論された2018年頃の日本では、勤務間インターバルという言葉や概念がほとんど知られておらず、注意喚起にとどめて法制化は見送られました。いま、勤務間インターバルに目を向ける企業も少しずつふえているので、今後法制化が期待されます。
 こうした労働時間管理に加え、働き方改革関連法では、産業医の権限強化を含みますが、産業医は長時間労働者の面接をしても、健康障害の原因である長時間労働を制限する権限を持たず、もっぱらまだあきらかな健康障害に至ってない長時間労働者の過重労働を容認する役割を担わされている現実があります。いま全国には10万人以上の産業医がいますが、そのほとんどが臨床の医療を本業として、片手間で嘱託産業医になっており、会社の制度や職場の実態、労働者の健康を守るための法律を十分理解しているとはいえません。労働者を守る組織としての労働組合の力が弱くなり、公的機関としての労働基準監督署の監督官の数は絶対的に少ないなかで、労働者の健康を守る産業医の役割は非常に大きくなっており、その現状を改善することが求められていると思われます。

(執筆・監修:帝京大学 名誉教授〔公衆衛生学〕 矢野 栄二)