医学部トップインタビュー

研究力で世界をリード
産学連携を積極的に推進する-大阪大学医学部

 ◇学生運動の中で痛感

 金田医学部長の父親は大阪大学医学部の卒業生。脳神経解剖学の研究者だった。「小学校低学年の頃、父の通う研究室に見学に行ったのをよく覚えています。当時から漠然と将来は医学部に行って研究がしたいと思っていました」

大阪大学医学部のキャンパス

大阪大学医学部のキャンパス

 当時、地域でトップ校だった奈良女子大付属中学に入学。スポーツ好きだった金田氏は、サッカー部に入ったが、体育会系にはなじめなかった。「先輩から何か言われても、理由を聞いて、納得したらやる、納得しなかったらやらない、という態度だったので、すぐにけんかして辞めました」

 大学の学生運動の影響を受けて、付属高校でも数カ月間、講義が行われない時期があった。この時間が金田氏の人生において、重要なターニングポイントになった。「いろんなセクトの人たちと議論していて、絶対おかしいと思っても、論破できない。やはり自分の論理をしっかりもって、人に流されない人間にならないといけないと思いました」

 大阪大学医学部に入学。紆余(うよ)曲折あって、細胞生物学の岡田善雄教授のもとで研究生活をスタートさせることになった。岡田氏はバイオテクノロジーの基本技術である「細胞融合現象」を発見した細胞工学のパイオニアとして知られる。「細胞と細胞を融合して顕微鏡で見たとき、生きているものを見られたことに手応えを感じ、『これだ』と思いました」

 元来、喧嘩っ早い性分だったが、岡田氏のもとで研究を続けるうちに、謙虚になることの大切さを痛感。100人以上が共同研究者を得ることができた。「最近は学生でも僕より偉いと思うことが多々あります。どんな人にも何かいいところがある。それを見つけて高めたいし、自分でも吸収したい」

 ◇基礎と臨床の循環

 金田医学部長は今年2月から阪大の産学共創本部長として、大学全体の産学連携の指揮を執る。こうした共同研究開発を行うための場として2014年4月に最先端医療イノベーションセンターが設立された。「医学や医療というのは社会のニーズに直結している分野なんです。こういう治療法がない、患者さんはこういうものを求めているというニーズを常に目の当たりにしている。だから、医学部と組むことで、研究成果を世の中に役立てる道筋が開かれる」

大阪大学医学部最先端医療イノベーションセンター

大阪大学医学部最先端医療イノベーションセンター

 現在、医学部、理学部、核物理研究センターが共同で、アルファ線を使った核医学治療の研究を進めており、がんの新しい治療法として期待されている。「核物理研究センターが新しい核種を作り、理学部が分離精製して、医学部が臨床応用する。それぞれが企業と連携して、実際の治療に結び付けていきます」

 複数部局とそれぞれの分野に関連する複数企業が連携、協力することで、自分たちの予想を超えたまったく新しい治療法が生まれる可能性がある。こうした連携は、がんだけでなく、認知症、未知の感染症など、あらゆる分野に応用できるという。

 「臨床応用してみて、はじめてどんな患者に効くのかが分かる。研究成果が患者さんの役に立てば、社会貢献になるけれど、それで終わりではない。効かない場合は、何が問題なのか。それがまた新しい研究テーマになります。そこで分かった課題が次の研究を生むことで、研究推進にもつながっていくのです」

 基礎から臨床への橋渡しで終わるのではなく、両者が循環することで、より新しいものが生まれていく。分野を超えたオープンイノベーションは、世界的潮流でもある。世界のリーダー育成を目指す阪大医学部ならではの取り組みといえるだろう。(中山あゆみ)

*2019年4月1日付で新医学部長に森井英一氏が就任

【大阪大学医学部 沿革】
1838年 緒方洪庵、医学部の場として「適塾」を開設
  68年 明治天皇が病院建設の御沙汰書を下す
  69年 大阪府病院、大阪府医学校開設
  70年 大阪医学校と改称
  79年 中之島に大阪公立病院設立
  80年 府立大阪病院、府立大阪医学校と改称
  88年 大阪医学校と改称
1903年 大阪府立高等医学校と改称
  15年 府立大阪医科大学と改称
  19年 大学令により大阪医科大学と改称
  31年 大阪帝国大学医学部となる
  47年 大阪大学医学部と改称
  49年 大阪薬学専門学校を吸収し、医学部薬学科とする
  50年 医学部歯学科が発足
  51年 歯学科が歯学部として独立
  55年 薬学科は薬学部として独立
  93年 中之島地区から現在の吹田地区へ移転

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