女性医師のキャリア

地域医療に奮闘したシングルマザーが医療界の上層部に入って見えてきたもの 女性医師のキャリア 医学生インタビュー

 医師不足地域に新設された医学部1期生として、山形県民の期待を背負いながら地域医療に従事した神村裕子医師。女性医師の活用がまだ手探り状態だった時代に、女手一つで3人の子どもを育てながら地域に貢献してきた。県医師会理事を経て副会長となり、2020年には日本医師会常任理事に選任。さまざまな公益事業の功績が認められ、2023年4月に藍綬褒章を受賞した。地域の人との関わりを何よりも大切にしてきた神村医師が、日本の医療の中枢を担う立場で考えることとは何か。

神村裕子医師

神村裕子医師

 ◇県民の大きな期待を受けて医師に

 私は山形大学医学部の1期生として1973年に入学しました。当時の山形県は人口当たりの医師数が全国で一番少なく、東北の中では最後の医学部空白県でした。県民の強い要望によって医学部が設置されたこともあり、地域の期待を背負いながら学びました。卒業後は私と同じく山形県内に残った同期も多く、医師不足解消にはかなり貢献したのではないでしょうか。女性の医学生は100人中9人。女性活躍の機運が高まっていた年代だったこともあり、意欲的でいろいろな希望を抱いた人たちが集まっていたかもしれないですね。

 ◇女性が診療科を自由に選べなかった時代

 医学部6年生の時に「外科や産婦人科もいいな」と思っていましたが、産婦人科では、はなから「女性の研修医は採らない」とはっきり言われました。外科の教授には「手を見せてくれ」と言われ、教授の手と大きさを比べられて笑われ、それで終わりでした。当時、内科や外科のようなメジャー科と呼ばれる診療科は、大学によっては女性を敬遠する風潮がありました。私の場合は結婚相手が内科を選んだこともあってか、内科に何とか入れてもらえました。女性というだけで選択肢は限られていましたが、当時はそれに対して疑問を抱くこともありませんでした。

 ◇研修中に子供3人を出産

 子供は3人欲しいと思っていて、卒業後まもなく結婚し、研修中に出産しました。3人産み終わったところで夫と交代し、大学院に行こうと考えていました。当時は、地域に保育園もまだしっかり整備されていませんでした。私の場合は親のサポートもなかったため、個人で預かってくれる保育ママさんに最初からお願いしようと考え、産休に入る2カ月前に外来の看護師さんから紹介してもらいました。保育ママさんは保育士さんが自分の家で複数の子供たちを預かる昔ながらのシステムで、最近また復活しているようです。診療でお迎えが遅くなった時も「じゃあ、ご飯を食べさせておくね」と家族のように対応していただき、本当に助かりました。

 ◇専門医認定でまさかの門前払い

 ちょうどその頃は専門医制度が確立される移行期でもありました。出産と育児で出たり入ったりしながらも大学に通い、学会発表もこなし、自分では仕事と育児を両立しているつもりで頑張っていました。ところが、内科専門医の認定を申請しようとしたら、大学の在籍記録が残されていないことが分かり、研修履歴がないためにあっさり門前払いとなったのです。バイト先の病院に勤務していた扱いになっていたことを認識していませんでした。さすがにショックを受けましたが、これが後々の産業医の資格取得への追い風となりました。

 ◇出産後、予定外のシングルマザーに

 3人の子供を出産し、それぞれが6歳、4歳、1歳になった頃、予定では大学に戻るはずが離婚することになりました。31歳の時にシングルマザーになったのです。子供3人を抱えて生活するために大学院は諦め、小規模の個人病院で働き始めました。最初は非常勤だったのですが、院長から「生活がかかっているなら常勤の方がいいのではないか」と勧められ、常勤医として働きました。子育て中の医療スタッフが多い職場だったので理解もあり、かなり助けられました。

 入院施設がありましたので、夜間でも呼び出しがかかります。一番下の子が3歳ぐらいになってからは、上のお姉ちゃんに「今からちょっと病院に行ってくるからお願い」と頼んで出掛けるケースもありました。留守中に、子供たちが近所に住む保育ママさんの家に勝手に行ってしまい、慌てたことがあったので、職場に連れて行き、診察中は看護師さんにお願いする場合もありました。勤務先は小さな市にあり、当時、まだシングルマザーが珍しい時代だったことと、私が山形大学医学部を卒業した初めての医師だったことで、地域の人には本当に大切にしていただき応援してもらいました。

(左上から時計回りに)石ケ森威彬さん、稲垣麻里子、神村医師、河野恵美子医師

(左上から時計回りに)石ケ森威彬さん、稲垣麻里子、神村医師、河野恵美子医師

 ◇産業保健を引き継ぎ、地域に深く関わる

 病院は院長と私の2人体制だったので、院長が体調を崩して入退院を繰り返していた1年ぐらいの間は非常に大変でした。職場と家が近く、夜に帰って家の用事を済ませてからまた病院に戻るという、今思えば先が見えない綱渡りの生活が続きました。院長が亡くなられた後は親戚の方が院長となり、標榜(ひょうぼう)科が内科から産婦人科と内科に変わりましたが、同じ職場環境で働き続けることができました。

 院長は生前から、産業保健や校医のような地域における公衆衛生的な活動に熱心に取り組んでいました。地域の医師会から、私に「引き継いでほしい」との依頼があり、これがきっかけで医師会と関わるようになりました。当時は、医師会に新しく女性医師が入ってくることが新鮮だったのと、県外出身の医師がこの地域に貢献するということで歓迎されました。さまざまな会合に積極的に参加し、地域医療や行政との関わりを一から丁寧に教えていただきました。

 産業保健の担当は地域全体の産業を見る立場として関わるため、産業医と労働衛生コンサルタントの資格を取得しました。資格取得後は依頼が増加。頼まれたら可能な限り引き受けるようにし、自ら経験することを通じて、どんどん吸収していきました。医師免許が社会のさまざまなニーズに応えられる資格だと改めて認識しました。

 ◇働く人たちとの全人的な付き合い

 初期の時代の産業医は、鉱山や工場の劣悪な環境で働く人の労災に関わっていました。その後、メタボの概念やメンタルヘルスといった個人の健康管理が重視されるようになり、産業医の役割も変わっていきました。これにより職場の環境改善だけではなく、働く人たちとの全人的なお付き合いも増えてきました。

 産業医には専属契約と嘱託契約があり、小さな規模の会社では私のような地域の産業医が月に1回、2時間程度訪問します。衛生委員会への参加や職場巡視のほか、健康診断の結果を拝見したり、従業員と面談したりするのが主な業務です。地元の産業についていろいろ知ることができ、地域との結び付きが深まりました。講演の依頼も多く、ちょうどメタボ検診やストレスチェックの導入前で、人前で話すことが楽しくなり、これにものめり込みました。

 産業医は治療するわけではなく、医療機関につなげたり、病気を予防するための生活指導や家族の介護の問題など、病気以外のさまざまな情報を提供したりして働く人を支えます。診療とはまた違ったやりがいが得られました。

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