女性アスリート健康支援委員会 女子マラソンの夜明けを駆け抜けて

月経が来なくなった高校時代
ロス五輪へ「期待の星」に―増田明美さん

 スポーツジャーナリストの増田明美さんは、前回の東京五輪・パラリンピックがあった1964年生まれ。故郷は房総半島の千葉県岬町(現いすみ市)だ。軟式テニス部員だった中学1年の秋、町内一周駅伝大会に助っ人ランナーとして出場したのが、陸上を始めるきっかけだった。

 インタビューに応じ、高校時代の体験を振り返る増田明美さん
 「高校生のお兄さんたち3人をごぼう抜きにして、チームは優勝。走るのは退屈だと思っていたけれど、学校で校長先生が褒めてくれたのがうれしくて、興味を持つようになりました」と笑う。

 両親は専業農家で、子どものころの遊び場はミカン畑のある山。小学校までの2.5キロを歩いて集団登校し、中学までの5キロは自転車通学。自然と鍛えられた足腰は人並み外れて強かった。「少女漫画の『エースをねらえ!』に憧れて入ったテニスでは、才能はなかったけれど、どんな球でも追いかける粘り強さはありましたね」。やがて陸上に専念すると、800メートル走の全国レベルのランナーとして頭角を現した。

 陸上の強豪だった成田高校の滝田詔生(つぐみ)監督にスカウトされ、入学して監督の自宅で下宿生活を始めた時、身長は150センチ、体重は38キロ。「それまで楽しんでやっていた陸上に、専門的な練習メニューで本格的に取り組むようになったので、伸びしろがあった。名門なのでライバルもいる環境で、競技に集中できました」

 猛練習を重ね、3年生になると、トラックの3000メートル、5000メートル、1万メートル、ロードの10キロ、20キロ、30キロと、日本記録を次々と塗り替えた。「天才少女」と呼ばれるようになった。

 ◇貧血ひどく、競技離れた時期も

 中学の陸上部時代。「良い結果が出て、褒められて、人は伸びていくことを経験しました」(増田さん提供)
 高校の3年間、順風満帆というわけではなかった。1年生の途中、貧血がひどくなり、練習についていけなくなった。当時の体重は36キロ。「『俺と一緒に富士山に登ろう』と、高校へ誘ってくださった滝田先生に『マネジャーになってくれ』と言われて。頭にきちゃって、陸上部をやめて、半年間は自宅から学校に通っていました」

 一般に、激しいトレーニングを続けるアスリートは、血液中のヘモグロビンの原料となる鉄分が不足しがち。特に女性は月経による出血もあるので、男性より貧血を起こしやすい。鉄分を多く含む食べ物の摂取はもちろん、食事量にも気を付ける必要がある。

 だが、高校時代の増田さんは「体重が少ない方が記録はいい」と考え、厳しい練習に見合う十分な食事を取っていなかった。「先生の奥さまがせっかくバランスのよい食事をつくったのに、全部食べることには罪悪感を感じて、とんかつを半分残したことも。臭みを取る工夫をしてもらった鉄分の多いレバー料理を、食べたふりをして、濃いお茶の中に吐き捨てたこともありました」と振り返る。

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