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ある女性の人生 第45回


その女性の最終学歴は、尋常小学校だ

その女性の最終学歴は、尋常小学校だ

 90代半ばの女性は、こんな人生を歩いてきた。

 ◇小作農の二女として

 小さな田んぼが折り重なる山あいの集落で、小作農の二女として、その女性は生まれた。

 兄がいて姉がいて。少し年が離れて弟がいた。弟の子守や雑用は、二女の役目だった。兄と姉は、野良仕事を手伝う貴重な戦力だったから。

 とはいっても、野良仕事も手伝わされた。弟をおぶって田んぼに出掛け、学校にも通った。

 ◇屈辱の下働き

 高等小学校には、当然ながら行かせてもらえなかった。尋常小学校を卒業すると、すぐに遠い親戚筋にあたる地主の家の下働きとなる。仕事の中身が変わっただけで、体はちっとも楽にならなかった。

 炊事、洗濯などの家事全般に加え、むしろ編みや草履作り、柴刈りに豚の餌やりや豚小屋の掃除、さらには養蚕の手伝い。やることは山のようにあった。さらに、使用人としての屈辱が加わった。

 その頃、国民学校令により、高等小学校は、国民学校高等科に変わった。使用人としての屈辱の中でも、その高等科に進んだ同い年の地主の子どもの洋服を洗濯するのが何よりもつらかった。

 ◇農地改革の結果

 日本の敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の主導の下で小作農のほとんどが自作農となった。農地改革だ。軍国主義から民主主義への転換を図るGHQの占領政策の一環であり、女性の実家も自作農となった。だが、女性がいた山あいの集落では、地主、小作の関係性は実質的に継続した。女性は元地主の家の下働きを続けた。

 ◇後妻の口

 20代半ばで、女性に後妻の口が掛かった。麓の町の商家の息子で、2人の子持ちだった。

 GHQの占領政策は、「恋愛の民主化」にも及んだ。昭和21(1946)年5月に公開された映画「はたちの青春」(佐々木康監督)に挿入された日本映画初とされる幾野道子と大坂志郎のキスシーンもGHQの指導だという。

 若き女性は、「映画のように自分の思いに忠実な自由恋愛をしたい」との憧れがあった。でも、しょせんはかなわぬ夢。縁談を断る勇気もなく、今の生活が楽しいわけでもなく、言われるがまま結婚した。

 ◇嫁いでみて

 嫁いですぐに自分のような者が嫁に迎えられた理由が分かった。

 夫となった人は、ひょろひょろとした風采の上がらない男だった。商売はしゅうと、家内のことはしゅうとめが圧倒的な権力を握っていた。

 しゅうとめは、嫁の立ち振る舞いすべてににらみを利かせた。それは夜中まで及び、夫婦の寝室の横でしゅうとめのせき払いが聞こえることもしばしばだった。

 夫はといえば、乳離れしていないくせに、妻には暴力を振るう男だった。

 先妻は、病気で亡くなったと聞いていた。間違いではなかったが、心の病で衰弱したのだと後に知った。
 それでも、夫との間に子はできた。自分も人並みに幸せをつかむことができるのだと、娘を出産したばかりの女性は少しだけ思った。

 ◇心労の子育て

 先妻の子どもたちは、いつまでたっても新しい母親になつかなかった。とはいうものの、自分が腹を痛めた子だけをかわいがるわけにはいかない。しゅうとめの目におびえ、逆に先妻の子に甘く、自分の子に厳しく当たるという心労の日々が続いた。「尋常小学校しか出ていない無学者に孫の教育を任せられない」と、しゅうとめは子どもたちの教育に大いに口を出した。

 ◇「自分」を封印

 嫁いでから30年以上もの間、しゅうとめは嫁にしゃくしを渡さなかった。しゃくしとは主婦権だ。わずかばかりの小遣い。夫や子どもの服も、もちろん自分の服も、しゅうとめに伺いを立てなければ買えなかった。

 やがて女性は、自分で物事を決めること、自分の意見を言うこと、自分の感情までも封印する考え方がすっかりと身に付いていった。

 しゅうと、しゅうとめ、そして夫が他界した後も考え方は変わらず、今は先妻の子に店を譲り、老いた女性はマンションでひっそりと暮らしている。自分の娘はとうに独立し、一人暮らしを続けている。

 ◇「したいこと」探し

 90歳を超えた頃、腰を痛めて要介護になった。その頃から、自分を封じ込める考え方に少しずつ変化が見えてきた。

 ケアマネジャーと呼ばれる人が、マンションを訪れるようになったのがきっかけだった。

 「その人は、自分が生きて来た道の話に真剣に耳を傾けてくれるんです」

 それを繰り返すことで、つまらない自分の人生にも、少しは価値があったのではないかと女性は思えるようになってきた。

 「その人は、『どうしたいですか、何がしたいですか?』って、よく聞くんです。でも、決してせかすわけじゃなく、優しく尋ねてくれるんです」

 それは、自己決定を促す質問なのだろう。

 女性が長い人生の中で忘れてしまった「自分のしたいこと探し」を、ケアマネジャーは焦らずに手伝っている。(了)

 佐賀由彦(さが・よしひこ)
 1954年大分県別府市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。フリーライター・映像クリエーター。主に、医療・介護専門誌や単行本の編集・執筆、研修用映像の脚本・演出・プロデュースを行ってきた。全国の医療・介護の現場を回り、インタビューを重ねながら、当事者たちの喜びや苦悩を含めた医療や介護の生々しい現状とあるべき姿を文章や映像でつづり続けている。中でも自宅で暮らす要介護高齢者と、それを支える人たちのインタビューは1000人を超える。

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