Dr.純子のメディカルサロン

それでも自分らしく生きる
~肺がん治療しながら現役プロ選手~ 湘南ベルマーレフットサルクラブ・久光重貴さん

 久光重貴選手は、フットサルの最高峰Fリーグで、プロとして活躍する現役Fリーガー。2011年に骨髄炎にかかり、「再び歩くことは難しい」と医師に診断されながら、懸命なリハビリで復帰を果たします。

久光選手

久光選手

 しかし、13年からのシーズンに向けた開幕前の健康診断で「右上葉肺腺がん」が見つかりました。31歳。がんはリンパ節に転移していて、手術も放射線治療もできない状態でした。

 それから6年。久光選手とは、私も何度も、肺がん学会市民講座などでご一緒させていただきました。抗がん剤による治療を受けながら、プロのスポーツ選手を続けている方は恐らく、他にいないのではと思います。

 それだけでなく、子どもたちへの健康教育や、病院での支援活動をなさっているエネルギー。ぜひ、ご本人にお話を伺いたいと思い、普段、小田原でトレーニングをしている久光選手が、ちょうど都内で後輩たちとの交流会がある日を選んで、お会いしました。

 久光選手は、小学1年からサッカーを始め、帝京高校サッカー部を経て、フットサルクラブ、カスカヴェウ(現ペスカドーラ町田)入り。2008年に湘南ベルマーレフットサルクラブに移籍し、現在も同クラブで活躍中。09年にはフットサル日本代表にも選ばれた。

 
骨髄炎で車いす生活

 海原 何度も大変な状況を生き抜いてこられたと思いますが、2011年に骨髄炎で手術なさったんですね。

 久光 初めは、脚が痛くて痛くてたまらなくて、病院に行ったのですが、原因が分からず、抗生剤を服用していたんです。

 治らなくて、何度も薬を変えて、あまりにも治らなくて、病院を変えたら、いきなり「骨髄炎、すぐ手術」と言われました。

 でも手術しても、すでに骨の中が空洞になっていて、「もう歩けるかどうか分からない。ボールを蹴るなんてとても無理」と言われました。もう8年前ですね。

肺がん学会の催しに参加した久光選手

肺がん学会の催しに参加した久光選手


 海原 その状態から、どのように気持ちを立て直したんですか。

 久光 入院して車いす生活をしている時、東日本大震災があったんです。その映像を見ていて「あぁ、人間は無力だな」と思ったんです。

 そして、多くのスポーツ選手たちが東北に行って、応援するのを見ていました。自分は何もできなくて、無力だとも思いました。

 でも生きている。ということは、そのことに意味がある。生きていて、できることが1%でもあるなら、そのことに向かう努力をしなければならない、と思わせてもらったんです。

 それで、リハビリをして。すると、周りの骨が強くなって。実は、今でも距骨(かかとの上方にある短い骨)が空洞なんですけど、走れるようになったんです。

 本当は骨盤から骨を取って、埋める手術をする予定でしたが、しなくても大丈夫になりました。

 ◇奇跡の復帰から2年でがんに

 海原 そうして奇跡的に復帰をした2年後ですね。がんが見つかったのは。

 久光 選手に義務付けられている開幕前のメディカルチェックがあるのですが、それでがんが見つかりました。

 海原 骨髄炎から奇跡的に復帰して、これからという時にがんというのは…。

 久光 がんの治療に入る前日、クラブのホームページに、がんの治療を始めるので選手登録しませんということを発表した時、本当にたくさんの方から励ましをいただいたんです。

 その応援がなかったら下を向いていたと思います。また戻りたいという思いが後押ししてくれました。

フットサルリボンに参加する子どもたちと。前列左端が久光選手

フットサルリボンに参加する子どもたちと。前列左端が久光選手


 海原 今は治療を続けながら支援活動をなさっている。そのきっかけも、そうした思いと関係があるのでしょうか。

 久光 自分ががんと診断された時、不安でいろいろ調べたんです。病気になったら、たぶん誰でもいろいろ情報を集めますよね。

 その時に、もちろん治療を受けても亡くなる人もいる、でも生きている人もいる、ということに気付いてもらうと、気持ちが変わると思ったんです。

 がんになっても、仕事をしたり、好きなことを続けたりしている人がいるんだ、と思えば、不安が減りますよね。

 治療を受けながらプロ選手を続けるのは、今後がんになった人が自分の活動を見て、「ああ、そういうこともできるんだ」と気付いて、気持ちを軽くしてほしいと思ったからなんです。


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