一流に学ぶ 難手術に挑む「匠の手」―上山博康氏

(第2回)学生運動で大学封鎖=古本屋通い読みあさる

 父親が自衛隊でパイロットをしていたことも影響して、上山氏は高校2年までは飛行機を造る仕事に就きたいと考えていた。戦後初の国産旅客機YS―11の基本構想に参画した木村秀政氏が同じ青森県五戸町の出身で、夏休みに電車を乗り継いで会いに行った。

 「自分の将来進む道を見たくて、電車を乗り継いで出掛けて行ったのに、木村先生はやけに元気がないんですよ」。政府の十分な支援がなかったため、木村氏は「もう日本では飛行機が造れない」と言っていたという。「そのとき僕の夢は完全に崩れてしまいました」と上山氏は振り返る。

 同じ頃、北杜夫のどくとるマンボウシリーズの影響で、医学部への進学も視野に入れていた。青森で整形外科医をしている親戚に相談すると、「北海道で医者をやるなら北大へ行け」とアドバイスされ、北海道大学医学部を志望校に決めた。

 「高校2年の模擬試験で、すでに北大医学部は合格圏に入っていました。臥薪嘗胆(がしんしょうたん)を掲げてひたすら勉強してきた孤独な少年でしたから」

 塾や予備校に行かず、大学入試に向けた特別な勉強もしなかった。それでも美術、音楽、保健体育も含め、全ての科目で満点を目指した。同級生からは「伝説の秀才」と呼ばれた。試験の順位が校長室の前に貼り出されるので、同じ学年で毎回トップの上山氏の名前を知らない学生はいなかった。しかし、顔はあまり知られてなかった。修学旅行で京都に行き、立命館大学に通っていた兄が会いに来てくれたときのことは、今も脳裏から消えない。

 「同学年の女子たちが兄貴を見て『あっ、上山さんだ』って集まってきて取り囲んだんですよ。2学年上で同じ高校を卒業しましたが、在学中は友人の多いイケメンでスーパースターでしたから。そこで僕と兄貴が兄弟だって分かったとき、『あの秀才の上山君って上山さんの弟だったの? わー、意外!!』と言われました。その中には日頃から気になっていた女の子もいました。すごいみじめな高校時代でした」

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