こちら診察室 アルコール依存症の真実

しらふの頭で、厄介さに気付く 第32回

 精神科病院への最初の入院が終わった後、男性は病院の正門すぐ近くの酒の自動販売機にちゅうちょせずに金を投入し、酒を飲んだ。それから半年もたたないうちに再び男性は精神科病院に入院した。

アリがはい回る幻覚に襲われる

アリがはい回る幻覚に襲われる

 ◇保護室に入れられる

 「1回目の入院と同じように病室に連れて行かれるのかと思ったら、保護室に入れられてガチャリと鍵を掛けられました。その時、背の届かない高さにある窓から聞き覚えのある声が入ってきました。俺を病院まで連れてきた近所の魚屋さんのおやじと奥さんの声でした。『やっと入ってくれたよ』『今度ばかりは懲りたでしょうね』。そんな話が遠ざかっていきました」

 男性は寂しさに包まれた。

 「保護室の床にはシーツにくるまったマットが敷いてありました。それと枕と掛け布団。他に部屋にあるものといったら、トイレくらいです。まるで刑務所です。『何でこんな所に入れられたんだろう』と思いました」

 その理由はほどなく判明する。

 ◇幻覚が襲う

 「夜になると汗がダラダラ出てきて、体がガタガタ震えてきました。もんどりを打つとは、こういうことだと思いました。どんなに拭いてもねばねばした汗が滝のように流れます。寝ようと思ってもアリが体中をはい回り、どうしても寝られません」

 19世紀のフランスの画家・版画家のロートレックは、ムーラン・ルージュなどのダンスホールに入り浸り、酒をあおり続けてアルコール依存症になった。彼が見たのはクモの幻覚だった。男性の幻覚はアリだった。

 「アリが怖くて眠れません。一晩中、天井の明かりをずっとにらんでいました」

 ◇地獄の住人と安心感

 「やっと、朝になりました。看護師さんがドアを開けて『朝食です。食堂に来てください』と言いました」

 食堂の席に着いた男性は、猛烈な喉の渇きを覚えた。

 「『水をください』とお願いすると、水を入れた大きなどんぶりがテーブルに置かれました。どんぶりを持つと手がガタガタと震えます。水がこぼれて3分の1くらいになりました。歯もガタガタ震えます。それでも何とか残った水を飲み干しました」

 食事を始めても手の震えは止まらなかった。

「恥ずかしくなって周りを見たら、どの患者の顔色も黒ずんでいました。肝臓が悪いと黒い顔になるそうです。みんな地獄の住人のようでした。それはさておき、どの患者の手も震えていました。『俺だけじゃないんだ』と妙な安心感を覚えました」

 ◇夜、一人になって

 入院中はいろいろなプログラムがある。日中はそれをこなすのに忙しいが、夜になるといや応なしに自分と向き合う時間が訪れる。とてもつらい時間だ。

 「自分と向き合うことは現実と向き合うということです。酒を飲めばその恐ろしさを紛らわすことができましたが、しらふだから、そうもいきません」

 夜の歯磨きをした時、男性は自分の顔を鏡でしげしげと見た。その顔は食堂で見た患者たちと同じように黒ずんでいた。

 「『どうして、こんなことになってしまったのだろう、これから俺はどうなっていくのだろう』と、震えるほどに怖くなりました。もちろん、今度の震えは離脱症状の震えではなくて心の震えです」

 アルコール依存症の「不幸」

 入院中には考える時間が余るほどにある。男性は、なぜ自分がこうなったかについて考えを巡らせた。

 「アルコール依存症の不幸とは、依存症がひどくなっていることに本人が気付かないことなんです。周りの人は本人のために被る迷惑が次第に大きくなり、手が付けられないほどに酒癖が悪くなっていることが痛いほど分かります。でも、本人は気付きませんし、気付こうともしません」

 男性が「不幸」と言うアルコール依存症の厄介さは、そこにある。離脱症状に苦しみ、黒ずんだ顔に今さらながらに驚き、自分の今と未来に心を震わせた男性は、その厄介さにやっと気付き始めたのだ。

 ◇飲むことも苦しい

 男性は続ける。

 「周りの人の迷惑を顧みず、好きで酒を飲んでいると言われれば、その通りなんですが、酒を飲むのだって苦しいんです。でも、飲まなくても苦しい」

 苦しさに違いがあるのか。

 「どちらも苦しいけれど、その苦しさは異質のものです。あえて言えば、飲む時の苦しさは、飲めばとんでもないことになることが分かっているのに飲み続けなければならない苦しさです。飲まない時の苦しさは、とんでもないことになっている現実を見ることの恐ろしさと、それでも酒を飲みたいという苦しさです」

 しらふで自分と向き合った男性は「今度こそ酒をやめて、やり直そう」と心底思った。

 ◇2度目の退院

 入院から3カ月が過ぎ、2度目の退院の日がやって来た。母親がいた。

 姉と弟が郷里に連れ帰った母親は、男性と離れていたために心の病が癒えたのだろう。不肖の息子を迎えに来たのだ。

 「自宅の最寄り駅までは一緒に帰りました。でも、老いた母親と顔見知りのいる街を歩くのは嫌でした。『床屋さんに寄ってから帰る』と、金をもらって母を先に帰しました。髪を切ってさっぱりして、そば屋に入りました。隣の客がビールを飲んでいました。何の抵抗もなくビールを頼みました。『幸福の黄色いハンカチ』っていう映画で、刑務所から出て来た高倉健が食堂でうまそうにビールを飲むじゃないですか。もう、健さんの気分でした」

 病院で決意した「酒をやめよう」は、「深酒はやめよう」へと変わっていた。(了)

 佐賀由彦(さが・よしひこ)
 ジャーナリスト
 1954年大分県別府市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。フリーライター・映像クリエーター。主に、医療・介護専門誌や単行本の編集・執筆、研修用映像の脚本・演出・プロデュースを行ってきた。全国の医療・介護の現場(施設・在宅)を回り、インタビューを重ねながら、当事者たちの喜びや苦悩を含めた医療や介護の生々しい現状とあるべき姿を文章や映像でつづり続けている。アルコール依存症当事者へのインタビューも数多い。

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