こちら診察室 アルコール依存症の真実
自助グループで自分に向き合う 第29回
アルコール依存症で精神科病院に入院すると、必ずと言っていいほど、自助グループへの参加を勧められる。
大人への「通行手形」は酒だった
◇心の憂いが軽くなる
自助グループとは、同じような悩みや生きにくさを抱えている人たちが自分の気持ちを語り合い、理解し合い、支え合うグループだ。悩みや生きにくさとは心の憂い。それをグループの仲間と共有することで深い孤立感が癒やされ、心の憂いを軽減することができるのだ。
◇リフレクション機能
心の憂いの共有とともに、自助グループにはリフレクション機能がある。リフレクション(reflection)とは、日本語で内省や振り返りなどと訳される。内省とは、自分が経験した出来事についてその時々の心の動きを見詰め直すことで、これからの行動をより良くしていこうというものだ。
人の未来は過去と現在を結ぶ延長線上にある。そのままでは破滅的な未来しかないアルコール依存症の人たちにとって、過去から現在を結ぶ線を内省し、未来のあり方に修正を加える作業は極めて重要だと言えるだろう。アルコール依存症の人たちの修正とは断酒だ。断酒を継続するための手掛かりは過去に存在するのである。
◇過去の自分を見詰める
アルコール依存症の2大自助グループは断酒会とA.A.(アルコホーリクス・アノニマス:匿名のアルコール依存症者たち)だ。
筆者はA.A.に通う人たちに話を聞いた。話をしてくれた人は、漏れなく過去の自分をしっかりと見詰めていた。インタビューの場では、少しの質問に対し自分の過去をとうとうと語るのが常だった。質問を挟まなければ1時間以上語り続ける人もいた。その人の話を一部紹介したい。なお、この話は25年ほど前に聞いたものなので、今の時代感覚とは合わない点もあるが、酒飲みの本質の一断面を知ることができると思う。
◇小原庄助さんのようだった父
「姉が2人いる長男として雪の多い地方の農村で生まれました。戦後の農地改革までは、そこそこに裕福な農家だったと聞いています。祖母が『小作に作らせた米』などと、平気で言っていたのを思い出します。ただ、父は朝から酒を飲んでいるような人で、民謡の『会津磐梯山』に出てくる小原庄助さんのように、一代で身上(しんしょう:財産のこと)をつぶしたそうです」
「小原庄助さんは架空の人物ですが、清水宏監督作品に同名の映画があります。村の人から小原庄助さんと呼ばれる、大河内傳次郎さんが演じていたその主人公は、朝からお茶代わりに酒を飲んでいる人なんですけれど、村人からとても好かれていました」
「私の父も庄助さんのように好かれていました。後に母に聞いた話では、お金もないのに借金までして人にごちそうしたり、寄付したり、人にお金を融通したりすることもあったと言います」
◇大好きだった父親
「父からも母からも2人の姉からも、かわいがられて育ちました。特に父からは一度も叱られたことはありません。父はいわゆる大酒飲みで、しょっちゅう母とけんかをしていました。でも、どちらかというと父の方が好きでした。だから私は酒飲みに抵抗はありません」
筆者がインタビューしたアルコール依存症の人たちの大半は、親の飲酒癖に嫌悪感を持っていた。酒に酔っ払った親が、家庭の平穏を乱すことを繰り返し体感したからだ。酒により両親がいがみ合い、暴力のある風景が日常となって貧乏になるからだ。だから「親のような酒飲みにはならない」と多くの子どもたちは誓う。ところが、必要な時期に親の愛情を受けられず、心が病み、アルコール依存症の親を持つ子どもたちはいつしか自分も酒に救いを求め、アルコール依存症になっていく。そんな構図が多かった。ところが、この男性は違った。飲酒する父親に好感を抱いていたのだ。
◇父の死
「私は自分の父みたいになりたかった。農家でしたけれど、父は車の修理業もしていました。とても腕が良かったようで、それなりに繁盛していました。いつも忙しそうでした。車を直した父が客から感謝される場面も、一度ならず目にしました。私は父が誇りでした」
「でも、私が小学校5年生の時に父は亡くなりました。母の話ではお酒のせいで脳の血管が破れたということです。とても悲しかった。亡くなったその日まで、私は父と寝ていました。お酒臭さなんか気になりませんでした。それが父のにおいでしたから」
父親は膨大な借金を残していた。家屋敷を手放しても足りないくらいだった。
「母と一番上の姉が一生懸命に働いて、何とか生活を支えてくれました」
◇長男の自覚と酒
「私は長男です。その自覚はありました。だから中学を卒業すると都会に出て、親戚が紹介してくれた自動車の修理工場で働きました」
「『早く大人になって家を支えるのだ』と強く思っていました」
大人になるための通行手形は酒だった。
「働き始めて最初の正月に、工場の社長が酒を飲ませてくれました。出されたのは父が大好きだった日本酒です。わくわくしながら飲みました」
◇酒の味
「父がおいしそうに飲んでいた日本酒でしたが、16歳になったばかりの私にとっては苦くてまずいものでした。でも、社長には『おいしいです』と返すと、社長は『ホウ、いける口だね』と目を細めてくれた光景を覚えています」
◇飲む練習
「アパートに帰った私は、ビールならうまいのか、ウイスキーならどうだろうかと試してみました。でも、どれもおいしくありませんでした。おまけに、天井がグルグル回って気持ち悪くなりました」
「でも、『早くお酒が飲めるようにならなければ大人になれない』と思い、飲む練習を重ねました。お酒を飲めば、父のように人から好かれるようになれるのだとの強い思いもありました」
勤めが終わると、カップ酒を買って飲む日課を自分に課した。ほどなく、酒のおいしさが分かるようになっていく。飲み過ぎることも多くなった。安酒だったこともあり、二日酔いはしょっちゅうだった。そんな日には迎え酒をするようになる。かくして男性はアルコール依存症の道へと歩み始めた。その後の顛末(てんまつ)は次の機会に書くことにする。(了)
佐賀由彦(さが・よしひこ)
ジャーナリスト
1954年大分県別府市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。フリーライター・映像クリエーター。主に、医療・介護専門誌や単行本の編集・執筆、研修用映像の脚本・演出・プロデュースを行ってきた。全国の医療・介護の現場(施設・在宅)を回り、インタビューを重ねながら、当事者たちの喜びや苦悩を含めた医療や介護の生々しい現状とあるべき姿を文章や映像でつづり続けている。アルコール依存症当事者へのインタビューも数多い。
(2023/01/17 05:00)
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