医学生のフィールド

大学研究職に終止符を打ってリセット
~優等生医師が始めた自分らしい生き方とは?~ 女性医師のキャリア 医学生インタビュー

 呼吸器内科の臨床医として、研究者として、教育者として、どんなことでも全力で向き合ってきた竹宮孝子医師。子どもの頃から責任感が強く、周りからの期待が大きいからこそ、それに応えようして頑張ってきた。努力をしながらコツコツ結果を出し、認められ、そして人生のターニングポイントを迎えた今、「自分が本当にやりたかったことは何だったのか」を振り返り、さらなる挑戦について思いを語った。

竹宮孝子医師

 ◇医師になることは「親孝行」だった

 竹宮孝子医師:私の家は祖母の父親の時代から診療所を営み、母は医科大学で要職に就いていました。「医者になってほしい」という環境で育ったことは確かですが、自分でも医者の仕事に向いていると思っていたので、それを受け入れることに抵抗はありませんでした。祖父が肺がんになったことで呼吸器に興味を持ち、東京女子医科大学卒業後は同大学の呼吸器内科を選択しました。26歳で大学院に進み、在学中の27歳の時に結婚、すぐに妊娠し、長女を出産しました。仕事は続けると決め、今までどんなことでも乗り越えてきたので、その時はなんとかなると思っていました。

 ◇このままでは死んでしまうかも

 当時は育休制度が始まったばかり、まだ周りで取っている人は1人もいませんでした。男性にとっても激務な労働条件に子育てが加わり、過労で体調が悪化したり、頻繁に感染症を繰り返すようになったりもしたのです。「このまま続けていたら死んでしまうかもしれない」-。恐怖感とも言える感情が湧き上がりました。呼吸器内科の臨床を離れて、もともと好きだった研究職に学内異動させてもらいました。当時、女性医師は出産したら退職し、子育てが一段落したらバイトで復職する先輩がほとんどでした。研究職は自分で課題を見つけて、計画を立て、実験のスケジュールを自分で決めることができ、学生への講義や実習も事前に計画的に準備することができます。地味で根気が必要ですが、自分で仕事をマネジメントできるので自由度が高く、出産後も働きやすい環境でした。人から何かを与えられるのではなく、自分でテーマを見つけて課題を解決することが得意だったこともあり、研究にのめり込んでいきました。

 ◇女性医師支援の先駆けとなる活動に着手

 1999年に男女共同参画社会基本法が施行され、一般社会では女性の離職を防ぐためのさまざまな取り組みが始まりつつありました。東京女子医科大学でも2006年に医療機関では先駆けとなる女性医師の支援室や再教育センターが設置されました。私もメンバーの一人として研究の傍ら、学内に勤務する女性医師が離職せずに済むように、保育園入園のためのサポートのほか、今では当たり前である時短勤務やワークシェアの試験的な取り組みなどを行いました。さらに、当時は小学校の低学年の子どもたちを授業後に預かってくれる施設が無かったため、病院の近くに自分で学童を立ち上げ、病院スタッフの子どもたちが利用できるように運営に関わるなど、女性医療者が働き続けられる環境整備に努めました。

 ◇「こうあるべきだ」にとらわれ続けた苦悩の日々

 正直なところ、私は小さい頃から優等生気質のような強い責任感がありました。誰かがやらなければいけない状況で、他にやる人がいないとき、自分がやらざるを得ないと思ってなんでもやってきました。「こうあるべきだ」というのが常に頭にあり、自分がやりたいか、やりたくないかを考えたことはありませんでした。親を喜ばせたくて医師になり、医師という職業がたまたま自分に合ってはいたものの、自ら自由度を狭めてしまったのではないかというモヤモヤ感が常にありました。

 自分の中で消化しきれていなかったため、大人になってからうまくいかないことがあると、誰かのせいにするようになりました。周りへの八つ当たりが始まってしまったのです。職場では後輩や部下に、家庭では夫に、そして娘に対しても相手のことを理解しようとせず、常にピリピリしていたのかもしれません。夫とは離婚し、一人で必死に育て上げたはずの娘も高校を卒業すると離れていきました。30代から40代はどうしていいかわからない状態が続いて本当に苦しかった。

竹宮医師=中央、白川礁=右上、稲垣麻里子=左上

 ◇教授昇進を辞退し、自分のやりたい道へ

 娘と離れていた5年間、いろいろなことを考えました。娘が離れてくれたおかげで、いかに彼女を理解しようとしていなかったか、周りを見てこなかったかということに気付きました。長い間、もつれていた糸が少しずつほぐれ、今は娘とは親友のように何でも話せる関係になり、お互い無くてはならない存在です。

 20年以上続けた脳科学の研究には誇りを持って取り組み、成果を上げていましたが、21年に准教授から教授への昇進の声が掛かったタイミングで大学を退職しました。研修医から30年間、大学のために十分やってきたから、「もういいかな」と自分の中で終止符を打ったのです。これからは自分が本当にやりたいことを探してみようと思いました。

 ◇「予防医学」の重要性をより多くの人に伝えたい

 50歳で急死した小中学校の同級生のことが頭をよぎりました。同級生の中で誰よりも元気で、いつも仲間のことを気遣ってくれていた彼が、なぜこんなに早く命を落とすことになったのか。産業医の仕事もしていた自分が「この検査を受けた方がいいよ」と一言教えてあげていたら救えたのかもしれない。悔やんでいた当時のことを思い出しました。

 40代は社会的にも責任のあるポジションに就くことが多く、忙しさのあまり自分でも気付かないうちに無理をしてしまう人が少なくありません。その無理のつけが50代に入ると突然やってくることがあります。人生の後半をどう生きていくかの節目でもある40代の体調管理は非常に重要であり、自分の体や心をフルメンテナンスして、良い状態にすることは不可欠です。そういう人たちに向けて予防の大切さを伝えることこそ、私が今一番やりたいことだと確信しました。

 ◇クラウドファンディングで「食事マスク」を開発

 18年に「街の医務室」を目指し、「株式会社マチーム」という会社を立ち上げていました。新型コロナウイルス感染症が流行する中で、呼吸器内科医、産業医として何かできないかということで、21年、マスクをしながら会食が楽しめる「食事マスク」を開発しました。このマスクはクラウドファンディングで多くの人たちにご支援いただき、特許権と意匠権を取得することもできました。大学退職後は産業医として、働く人たちの健康相談や85歳で引退した母の診療所を引き継ぎ、生まれ育った地域で診療を行っています。

笑顔の竹宮医師

 ◇オンライン診療の可能性に期待

 今、一番着目しているのはオンラインの活用です。オンライン診療は、以前は遠隔地診療の目的が強く、診療報酬では初診が適用されず、点数が低いこともあり広がりませんでした。コロナ禍で初診の対面要件の規制が緩和されたことで、オンライン診療は一気に進みました。コロナ禍の特別な緩和だったのですが、22年4月以降、コロナ禍とは別扱いでオンライン診療が設定されました。

 オンライン診療は、基本的にはかかりつけの患者さんが対象となります。しかし、かかりつけ医のいない患者さんの場合でも、医学的情報を十分に把握でき、医師が可能と判断した場合、または「診療前相談」を行った上で医師が可能と判断した場合は、初診からオンライン診療が可能となりました。かかりつけ医を持つ患者さんが、別の病気でかかる場合の初診についても同様で、診療には薬の処方も含まれます。これは大きな進歩です。

 例えば、産業医が行うオンライン面談では診療はできません。今までは面談をして診察が必要な場合、近くの医療施設の受診を勧めるだけにとどまっていたので、「どこのクリニックに行けば良いかわからない」「クリニックで医師に何と言えば良いかわからない」などの理由から、診療につながらないこともありました。産業医がオンライン面談で、受診をちゅうちょしている人の背中を押し、オンラインでの診療、その後の検査、診断、早期治療というスムーズな流れができれば、重症化して手遅れになる前に多くの人を病気から救えるのではないかと思っています。

 ◇多くの人たちの健康を願い、YouTube配信にも挑戦

 より多くの人たちに予防の大切さを知ってもらうために、YouTubeで「みんなの産業医 ドクターたかねえ」という名前でチャンネルを作り、現在は動画配信の試行錯誤中です。市場原理を知るためにフィールドマーケティングを学び、スクールに通って動画編集もできるようになりました。また、表現者として滑舌良く、表情も意識できるようにトレーニングしています。この2年間に今まで居た世界とは全く違う人たちと出会い、かつてない多くの学びがありました。自分自身の視野もどんどん広がっています。「自分は健康だ」と思っている人たちにもぜひ私のYouTubeを見ていただき、予防医学への関心が少しずつでも高まることを期待しています。(了)

聞き手:白川礁(帝京大学医学部6年)、構成・文:稲垣麻里子、企画:学生団体メドキャリ

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