Dr.純子のメディカルサロン

ぼくが感染症の専門医になった理由 岩田健太郎・神戸大教授のメッセージ

 新型コロナウイルス感染拡大のこの1年、研修医や医学生で感染症専門医を目指したいと考えている若者の声を聞きます。昨年2月、集団感染が発生したダイアモンドプリンセス号に乗船し、現場の問題点を分析し報告した神戸大学岩田健太郎教授は、以来、組織の問題点や感染症対策について精力的に発信をなさっています。岩田先生に若い医学者に向けてメッセージをいただきました。(海原純子)

第2次ベビーブーマー
  第2次ベビーブーマー
島根医科大学時代の岩田さん(本人提供)【時事通信社】

島根医科大学時代の岩田さん(本人提供)【時事通信社】

 ぼくが感染症の専門家になったのは、単なる偶然というか、「流れ」でして、決して昔からそうなりたいと目指していたわけではありません。なんか、いきなりがっかりですね。申し訳ありません。

 そもそも、ぼくは医者になるつもりがなかったんです。ただ、大学で「ちゃんと」勉強はしたいと思っていました。ぼくはいわゆる「第2次ベビーブーマー」世代でして、とても同級生が多かったのです。少子化の現在では想像し難いことですね。同級生が多いということは大学受験が厳しいということです。競争相手が多いですからね。

 当時は「受験戦争」なんて、やゆされていましたけど、偏差値の高い大学に入学するために高校生たちがしのぎを削って受験勉強にまい進していた時代でした。逆に言えば、大学受験さえ成功して、有名な大学に入りさえすれば、大学ではほとんど勉強しなくてもたいていは卒業できて、大学は「レジャーランド」といわれていました。

 そうやって遊びまくっていても、当時の日本は「バブル」と言われた狂騒的なまでの好景気で、「いい大学」にさえ入っていれば、就職先に困ることはありませんでした。そしていったん、就職してしまえばあとは親方日の丸、終身雇用というわけで、要するに大学受験こそが、人生というすごろくの要であり、ここを越えれば「あがり」だったのです。なんか、バカバカしいでしょ。

 ぼくが高校生の時は、さしてしっかりとものを考えていたわけではなかったけれど、少なくともこの受験戦争の狂乱はバカバカしいと思っていました。だから、早々にこうしたレールからはドロップアウトして、授業をサボって図書館にこもって好きな本を読んでいるような不良学生でした。不良学生と言っても腕力に自信があってけんかばかりしている「ツッパリ」(死語ですね)ではなく、むしろいじめられっ子でしたけどね。

総合的に勉強強総合的勉強的勉強う強敵勉強

 で、受験勉強には絶望していたぼくですが、逆説的に「ちゃんと」勉強はしたいと思っていました。みんな受験勉強で疲れ切って、大学に入ると勉強しなくなるのですが、ぼくは大学に入ったらちゃんと勉強したいと思っていた。

 では、「ちゃんと」勉強するとはどういうことか。当時のぼくにはよく分からなかったんですが、とにかく「総合的に」勉強するのが大事だと思っていました。漠然と。

 総合的に勉強するには理系とか文系とか、そういうしゃらくさいことを言っていてはダメだろう。だとしたら、何でも好き嫌いなく学びたい。どうしたらいいだろう。理系も文系もまとめて総合的に勉強する。それには、医学部に行くのがよいんじゃないか。あきらかにここには若気の至りで手前勝手な論理の飛躍がありますが、ま、ぼくはそう考えたのです。

 というわけで、ぼくは地元の国立大学、島根医科大学に推薦入学しました。推薦入試を受けたのは受験回数を最小限にして出費を減らすことと、一日も早く受験戦争からドロップアウトして好きな勉強をするためでした。11月には合格通知を得ていたぼくは、理科で履修していなかった生物学を独学し、語学学校に通って英会話の力を蓄え、高校では禁止されていた自動車教習所に通って運転免許までとっていました(もう時効だよね)。

 で、医学部に入って一生懸命勉強してましたが、まあ、浮くよね。「レジャーランド」なんだから。でも、それから英国で1年留学する機会があって、行ってみると、世界には俺なんか足元にも及ばないくらい一生懸命勉強してる学生がたくさんいることも知りました。一生懸命学んでるようで、全然、ぼくは甘かったんです。国内のちっちゃな大学で「浮く」ことなんてどってことないんです。世界的なパースペクティブで見れば、やはり一生懸命勉強するのが「標準的」でした。

 そっからは自己卑下ばかりしてました。まあ、住んでたところがよかったので、欧米から見れば極東の島国ニッポンの裏日本、日本海側「山陰」ですよ。メジャーなわけがない。辺境中の辺境で育ったので、自分がとことんちっぽけな存在に思えてならなかった。今でもそう思ってますけど。

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