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「お酒、強いね」が引き金に 第16回

 酒を飲める人は「お酒、強いね」と言われると、ちょっと得意になるものだろう。ただ、その程度は人によりまちまちだ。多くの人は一時的には誇らしい気持ちになるものの、「外交辞令だ」と軽く受け流す。

 ところが、横沢さん(仮名)は「お酒、強いね」の一言に、喜びで舞い上がる気持ちになったのだ。

酒を飲むと、別の自分になれる

酒を飲むと、別の自分になれる


 ◇新歓コンパでの優越感

 30年ほど前、横沢さんは大学の新歓コンパ(新入生歓迎のための飲酒会)で、初めて酒席に参加した。未成年の飲酒は法律で禁じられているが、大学入学後の飲酒は当時、社会が何となく許容していたのだった。

 先輩は「横沢君、強いね」と言いながら酒を勧めた。

 「行ける口だね」

 「飲んでもあまり変わらないね」

 そんな言葉を聞くたびに有頂天になった。

 「周りの同級生に比べ、大いに飲めることに優越感を感じたものでした」

 当時を振り返る横沢さんは「きっと、それまでいろいろな場面で抱き続けた劣等感の裏返しだったのでしょう」と続ける。

 ◇同級生への劣等感

 子どもの時から運動が苦手だった。運動会の徒競走は万年ビリ。ドッジボールでは真っ先にボールを当てられ、野球ではエラーを連発した。サッカー、バスケットボール、バレーボールなど、どれも下手くそだった。

 成績は可もなく不可もなし。小学校と中学校の通知表は体育を除いてオール3。ちなみに体育は2が定位置だった。当然ながら、成績を褒められたことはない。

 同級生とのコミュニケーションも、とても苦手だった。ちょっとしたことを話すだけでも、いつも神経をすり減らしていた。

 「同級生に比べて誇れるものはあまりなく、こんな話をしたら笑われるのではないか、ばかにされるのではないかといった、びくびくした気持ちがありました」と、横沢さんは子ども時代の自分を分析する。

 ◇父親にも気後れ

 父親に対しても劣等感を抱いていた。父親は有名な国立大学の出身で、地方でも名だたる企業に勤めていた。一方、横沢少年はと言えば、高校はやっとのことで進学校に進んだものの、成績は下から数えた方が早く、受験科目が多い国立大への進学は早々に諦め、私立大受験に専念することにした。そんなこともあったのだろう、何かと気後れし、父親がそばにいるだけで非常に緊張したものだった。

 ◇酒の力で冗舌に

 大学時代、「お酒、強いね」の言葉に甘い優越感を覚えながら、横沢さんは酒が自分を冗舌にしてくれることにも気付いた。先輩にも、同級生にも気軽に話せるのだ。

 「酒さえ飲めば、もうびくびくすることはない」と強く思った。

 実家に帰省した時、父親と初めて酒を飲んだ。緊張感なく話すことができた。「何を話したのかは、今では覚えていません」と言う横沢さん。だが、「でも、父親と普通に話ができた喜びはひとしおでした」としみじみと語る。

 父親は冗舌な息子を「酒を飲むと、理屈っぽくなる」と評したらしい。横沢さんは酒を飲んだ翌日に母親から伝え聞いた。父親は息子の酒の飲み方に駄目出しをしたのだろうが、横沢さんは「『理屈っぽい』と言われても、なぜかうれしかったです」と語る。

 ◇「ありのままの自分」と「なりたい自分」

 酒を本格的に飲み始めた当時、横沢さんは「酒を飲むと、ありのままの自分が出せる」と思っていた。しかし、飲まない時の臆病で寡黙な自分と、飲んだ時の大胆で多弁な自分とのどちらが「ありのままの自分」なのだろうか。

 いや、そんなことはどちらでもいいのかもしれない。劣等感が日常だった横沢さんは、酒に酔って劣等感から決別(または逃避)でき、「なりたい自分」になれたのだ。

 「偉大な俳優であるために必要なのは、演技する自分を愛することである」と言ったのはチャールズ・チャプリンだ。横沢さんは自分をより良く演じるために、酒を飲む自分を愛したのだ。

 役者がドーランで化粧をして演技に臨むように、人と話す際には酒による「化粧」が欠かせないものとなっていった。

 ◇もう一つの優越感

 社会人になって金がある程度自由になると、飲みに行く回数が大きく増えた。誘い合わせるのは会社の先輩や同僚だ。酒が入れば、初めて会った社員でも抵抗感なく話すことができる。そして、翌日会社で会った時に「昨日はどうも」などとあいさつされると、年来の知り合いのような錯覚を起こすのだという。

 「同期の中で、会社の人間を知っているのは自分が一番多いという優越感がありました」

 劣等感が人一倍強かった横沢さんだから、掛け替えのない優越感を継続するために、酒を毎日のように飲むようになった。

 ◇人並みの飲み方を演じる

 やがて横沢さんは結婚した。

 当時、自分の飲み方がおかしいとは思っていなかったが、今振り返れば、1軒目では終わらず、必ず2軒、3軒とはしご酒をしてとことん飲み続けるのは、いささか異常であったようだ。

 「よく金が続いたものだと思いますが、社宅に入っていたし、給料のほとんどすべてを飲み代に充てていましたから続けられたのだと思います」

 そんな横沢さんだったが、結婚して数年は人並みの飲み方となったようだ。しかし、そんな「演技」もつかの間、酒の量は確実に増えていった。

 ◇空手形

 「自分では、ひどい飲み方だとは思ってはいませんでした。でも、家族から見たら、ひどい飲み方だったのでしょう」

 ついに妻の堪忍袋の緒が切れた。

 「飲むのをやめなければ離婚!」と妻が言い出した。話は妻の両親にも伝わっていた。3歳の子どもがいた。横沢さんは妻とも、子どもとも別れたくはなく、妻の両親に向かって「今後は一切、酒は飲みません」と宣言した。もちろん、それが空手形であることは本人も妻も十分に分かっていた。しかし、妻の両親は「そこまでの決心なら、やり直したらどうか」と言ってくれて、結婚生活が続くことになった。(続く)

 佐賀由彦(さが・よしひこ)
 ジャーナリスト
 1954年大分県別府市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。フリーライター・映像クリエーター。主に、医療・介護専門誌や単行本の編集・執筆、研修用映像の脚本・演出・プロデュースを行ってきた。全国の医療・介護の現場(施設・在宅)を回り、インタビューを重ねながら、当事者たちの喜びや苦悩を含めた医療や介護の生々しい現状とあるべき姿を文章や映像でつづり続けている。アルコール依存症当事者へのインタビューも数多い。

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