女性医師のキャリア

出産後の職場復帰は前代未聞
~外科医を目指す女性に未来はあるか~ 女性医師のキャリア 医学生インタビュー


 ◇「必要とされる専門技術」との出会い

 ちょうどその頃、最初に勤務していた病院が健診センターを立ち上げることとなり、そこに在籍し、手術は週に1、2回頼まれたときに行くという働き方に切り替えました。内視鏡検査と肛門外科の外来を担当させてもらい、新たな分野に触れることができました。肛門や大腸内視鏡の診療は、女性患者さんから「女性の先生で本当に良かった」と喜ばれることが多く、第1子を出産した時に病院長から言われた「必要とされる専門技術」を粛々と磨いていきました。

 ◇再びハラスメントが始まり、退職を決意

 その後、第3子を妊娠・出産後、外科医を求めているという病院から声が掛かり、復帰を決めました。当時、その病院では主治医制が根強く残っていて、休日であっても自分が担当した患者さんが急変したら出勤しなくてはいけないという暗黙のルールがありました。2カ月前から娘の誕生日に計画して申請した休暇の旅行中に呼び出しが掛かり、駆け付けることができず、他の医師に助けてもらいました。上司からは「2度とそういうことがないように」と強く注意され、「それは約束できない」と答えたところ、無視というハラスメントが始まったのです。まだ1歳になったばかりの第3子と学校で問題を抱える長女のことで頭がいっぱいだったこともあり、こんな理不尽な環境では仕事を続けられないと退職を決意しました。

外科主催の子ども向けイベントにて 長女と。この直後に外科を退職

外科主催の子ども向けイベントにて 長女と。この直後に外科を退職

 ◇母親みたいな医師になりたい

 退職後、産業医や近所のクリニックで自由な働き方を始めた頃、コロナの感染が拡大し、それが大きな転機となりました。全国的な自粛で自宅学習が続いたため、子どもたちを職場に連れていき、親子で一緒に過ごす時間が増えたのです。医療ドラマの動画サイトを見ていた長女が私に解説を求め、「ママってすごいね」と私の仕事を理解できるまでに成長していました。小学校の卒業式の壇上で「将来は母親みたいな医師になりたい」と娘が言ってくれたことで、今まで頑張ってきたかいがあったと涙があふれました。

 ◇外科医として後悔しない生き方を

 外科医の先輩から「外科学会の会期中に開催するセミナーで自身の体験を話してほしい」と依頼されました。学会では恵まれた施設で勤務する女性医師の発表が主であり、人知れず辞めていった外科医の声が表に出ることはありません。辞めていった外科医の代弁者としての役割を拝命したのです。

 その後、私の発表を聞いた大学病院の教授から「手術室に入って研修しないか」と声を掛けていただきました。「外科に戻っても戻らなくても良い。ただ、外科医としてやり残したことがあるなら、一度しかない人生なのだから後悔のないようにしてほしい」とのことでした。外科医はメスを置いて時間がたつと、男性であっても戻ることは難しいものです。手術から離れて再びメスを握ることを諦めていた私にとって、願ってもいないありがたい言葉で、今までやってきたことが全部つながったと思える瞬間でした。

外科手技のセミナーにて 高校の同窓生でもある白川君と

外科手技のセミナーにて 高校の同窓生でもある白川君と

 ◇外科医を目指す人たちに未来を

 私が今こうしていられるのは、同じ外科医である夫の協力をはじめ、多くの人たちに支えられてきたからであり、外科医不足の過酷な労働環境でハラスメントが起きるのは当然だと思えるようになりました。

 また、外科を離れてからこれまでの経歴は所属が外科ではなくても、無駄なものは一つもなかったと感じています。

 現在、「外科を離れてから手技が戻る可能性」を試すためのプロジェクトにも参加し、練習を始めてから少しずつ感覚が戻りつつあります。

 外科医を目指す人たちが、自分らしく働けるための環境や体制が整備されることを切に願うばかりです。(了)

聞き手:白川 礁(帝京大学医学部6年)、文:稲垣麻里子、企画:河野恵美子(大阪医科薬科大学医師) 

藤川善子医師 プロフィル 
1981年横浜市生まれ。2007年埼玉医科大学卒 アンジュール横浜クリニック勤務
横浜市立大学附属病院研修後、藤沢湘南台病院をはじめ神奈川県内で消化器外科医として勤務。現在、大手企業の嘱託産業医、肛門科、消化器科での内視鏡検査、美容外科で女性や働く人に寄り添う診療を行っている。

  • 1
  • 2

【関連記事】


女性医師のキャリア