Dr.純子のメディカルサロン

緊迫の134時間をどう乗り切ったか
~41年前、ハイジャックに遭った医師~ 穗苅正臣博士

 

ハイジャック犯人が要求した600万ドルの身代金のうち、調達先の米国から届いた400万ドルの入った布袋=1977年9月30日、東京・羽田空港(時事)

ハイジャック犯人が要求した600万ドルの身代金のうち、調達先の米国から届いた400万ドルの入った布袋=1977年9月30日、東京・羽田空港(時事)

 ◇エンジン止まり、機内は45度以上に

 海原 驚いたでしょうね。


 穗苅 最初は恐怖というより、「ついてないな」という気持ちでした。自分が事件に巻き込まれるということは想像したことがありませんでしたから。ただ両手を上に挙げ、目をつむるように指示され、それに従わない乗客が拳銃で殴られ、私も本を読もうとしたところ、拳銃で殴られました。

 やがて静かな恐怖がじわじわと身体全体に広がり、震え始めました。犯人は5人でした。斧を手に持った男、拳銃と手りゅう弾を持った男…。緊迫した重苦しい空気で、押し潰されそうな時間の中で家族や友人、同僚、恩師のことなどが心に浮かびました。自分の死を意識しました。

 その後、犯人のアナウンスで赤軍派だということが分かりました。そして数時間してダッカ国際空港に着陸しました。飛行機のエンジンが止まり、それと同時に冷房が効かなくなりました。強い日差しで、機内の温度はどんどん上がり、汗が吹き出し、靴下までびっしょりになり、喉が焼け付くようでした。

 機内の温度は45度以上になったと思います。犯人たちは苛立ち、乗客は熱さでパニックになってきました。乳児が泣き叫び、大声を出す乗客も出て、機内は騒然としました。「水をくれ」「こんなに苦しめるなら早く拳銃で撃って殺してくれ」と騒ぐ乗客で機内は騒然とし、客室乗務員が犯人の指示で水を配り始めました。

解放直後の穗苅先生(中央手前)=アルジェリアのホテル(穗苅氏提供)

解放直後の穗苅先生(中央手前)=アルジェリアのホテル(穗苅氏提供)

 ◇恐怖がすっと消えて

 その時、後ろの席から1人の外国人乗客が前方にふらふらと歩いて来て、私の席のすぐ横でばったり崩れるように倒れたのです。犯人も驚いたのでしょう。倒れた男性に犯人が話し掛けましたが、反応はありません。「お医者さんはいませんか」。犯人は大声で叫び始めました。倒れた男性の苦痛にゆがむ顔を見て、私は無意識に立ち上がっていました。

 「私は医者です」。久しぶりに立ち上がった時、何か自由を取り戻したような気がしました。

 海原 医師であることを名乗り、仕事を始めた時、気持ちに変化が起きたのですね。

 穗苅 そうです。恐怖だけでいっぱいになっていた人質の自分から、自分は医師である、という自覚が確信となり、犯人に対する恐怖がすっと消えていくのを感じました。取り上げられたかばんを取り返し、中から医療用の薬や血圧計などを取り出しました。その後、連鎖反応のように機内に具合が悪くなる人が続出しました。機内の温度はさらに上がって48度になり、息が苦しくなりました。


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