Dr.純子のメディカルサロン

緊迫の134時間をどう乗り切ったか
~41年前、ハイジャックに遭った医師~ 穗苅正臣博士

ハイジャックされてダッカ空港に着陸した日本航空DC8型機=1977年9月28日、バングラデシュ・ダッカ空港(時事)

ハイジャックされてダッカ空港に着陸した日本航空DC8型機=1977年9月28日、バングラデシュ・ダッカ空港(時事)

 人質事件というと、私たちの日常とは、とてもかけ離れた出来事に感じられます。人質という状態がどれほどストレスフルな状態か。想像を絶します。自由を奪われる上に常に死の恐怖と隣り合わせですから。

 今から41年前、ハイジャック事件に巻き込まれ、最後まで人質となった医師がいます。「ダッカ日航機ハイジャック事件」。私が研修医だった時、東京慈恵会医科大学第1内科の講師だった穗苅正臣先生です。エッセイを最近出版した穗苅先生に、緊迫の134時間をどう乗り切ったのか、伺いました。

 「ダッカ日航機ハイジャック事件」とは
 1977年9月28日、パリ発東京行き日本航空472便が日本赤軍メンバー5人にハイジャックされた事件。インドのボンベイ(現ムンバイ)を離陸後に乗っ取られ、バングラデシュのダッカ空港に強行着陸させられた。犯人たちは日本の獄中にいる過激派活動家9人の釈放と出国、身代金600万ドルを要求。日本政府は超法規的措置として、これを受け入れ、10月1日、9人のうち出国を望んだ6人と身代金を移送した。人質は身代金や活動家らとの交換で徐々に解放され、10月3日に全員が解放された。


 海原 本にもお書きになっていますが、先生は当時、慈恵医大に勤務しながら日本航空の産業医をしていましたね。

ハイジャックされた日航機内。事件後に警視庁捜査員が検証した=1977年10月6日、東京・羽田空港格納庫(時事)

ハイジャックされた日航機内。事件後に警視庁捜査員が検証した=1977年10月6日、東京・羽田空港格納庫(時事)


 穗苅 その頃、カイロに住む日本人の間に肝炎が流行し、その血液を採取して検査するために出掛けた帰りです。カイロから日航機に乗ってギザのピラミッドを眺めたり、本を読んだりして6時間があっという間に過ぎ、パキスタンのカラチに着きました。

 飛行機はカイロからカラチ、ボンベイ、バンコク、東京という経路でした。カラチで客室乗務員が全員代わり、隣の席に澤田機長が次のフライトのために待機で乗り込みました。ボンベイ空港では200人以上の乗客が降り、200人余りの乗客が乗り込みました。特に不審な乗客もなく、飛行機は離陸しました。

報道陣が待ち構える中、次々と日航護送機に乗り込む6人の釈放犯=1977年10月1日、東京・羽田空港(時事)

報道陣が待ち構える中、次々と日航護送機に乗り込む6人の釈放犯=1977年10月1日、東京・羽田空港(時事)

 ◇突然、「ウオー」と叫び声

 海原 離陸までは何の兆候もなかったのですね。

 穗苅 そうです。離陸してから4、5分たった時、機内で「ウオー」という叫び声がしました。慌しい足音とともに前方にすごいスピードで走っていく若者が2、3人見えました。アシスタントパーサーの1人が騒ぎを抑えようとして席を立ったところ、いきなり拳銃を持った男4人に囲まれ、うち1人が拳銃の銃口をパーサーの胸に突き付けました。そして操縦席の鍵を出さないと乗客を殺すと脅したのです。日本赤軍のハイジャックでした。


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