Dr.純子のメディカルサロン
緊迫の134時間をどう乗り切ったか
~41年前、ハイジャックに遭った医師~ 穗苅正臣博士
◇クーデターまで起きて
無事に帰国した穗苅先生(中央、穗苅氏提供)
海原 どのくらい、それが続いたのですか。過酷な状況ですね。
穗苅 ハイジャックされてからずっとそんな状態で、2日目の朝、エアコン車と食料補給車が到着しました。その後、犯人側と日本政府との交渉で人質と釈放犯の交換が行われることになり、女性たちが解放され、残りの乗客は82人になりました。
しかし、そろそろ全員解放かと思っていたところで急に管制塔との連絡が取れなくなりました。なんとバングラデシュ政府内でクーデターが起こったというのです。
6日目の10月3日にエアコン車が故障しました。機内は再び温度が上がり、乗客がパニックに陥りました。機内で吐く乗客、殺せと叫び騒ぐ乗客で騒然としました。私は騒ぐ乗客に安定剤を飲ませました。クーデター後の空港の治安が悪くなり、飛行機は再び飛び立ち、クエートに向かい、続いてダマスカスに着陸し、その後やっとアルジェで解放されたのです。
穗苅氏の近著
◇「あの時の苦労に比べたら」
海原 本当に長い時間ですね。お話を伺うだけで想像を絶するような事件です。後で思い出してPTSD(心的外傷後ストレス障害)のような症状を起こすことはなかったのでしょうか。
穗苅 それが、そういう症状は出ませんでした。一緒にいた機長や客室乗務員の人たちもその後、そういう症状がなかったです。みんな必死に仕事をしていて、それがよかったのかもしれません。恐怖は仕事に集中している時に消えていきました。
穗苅先生(左)と筆者
それに亡くなった方が誰もいなかったのがよかったのでしょう。思い出したくないような事件でしたが、その時、一緒に機内で過ごした機長や客室乗務員とはその後も交流があります。
もっとも、そのうちの何人かはもう亡くなりました。あの時の搭乗券は今も取ってあります。それを見るたびに「あの時の苦労に比べたら」と思うことが何度もありました。
海原 貴重なお話をありがとうございました。
取材後記
大変な環境の中で自分の役目を見つけてそれに集中することで恐怖が消えたというお話が心に残りました。状況は異なりますが、東日本大震災の時、津波を伝えるために最後まで避難指示の放送をしたり住民の誘導に当たられ、亡くなった職員の方が多くいらっしゃいました。そうした方は自分の役目に集中することで恐怖が消えていったのでしょう。人は自分が今していることが全人生になるという話があります。医師という仕事が人質という環境の中で、人を救い、またご自分を救ったのだろうと思いながらお話を伺いました。
穗苅氏
穂苅正臣(ほかり・まさおみ)
医学博士。東京慈恵会医科大学卒業後、同大内科勤務。その後、日本航空勤労部健康管理課勤務、総括主席産業医、健康管理部部長を経て財団法人三菱養和会三菱養和クリニック所長、医療法人城見会アムス丸の内パレスビルクリニック院長を歴任。現在は日本航空特別講師。日本医師会最高優功賞、運輸大臣銀杯、航空功績賞を受賞。
(2018/11/29 06:00)