「医」の最前線 行動する法医学者の記録簿

能登半島地震の検案活動はこうして始まった
~法医学者らの初動―現地派遣調整~ 【第5回(上)】

大規模な火災で建物が焼け落ちた「輪島朝市」付近=2024年1月3日午前、輪島市【時事通信社】

大規模な火災で建物が焼け落ちた「輪島朝市」付近=2024年1月3日午前、輪島市【時事通信社】

 ◇4日に警察庁要請、人数と期間を協議

 警察庁から口頭で派遣要請があったのは4日午前です。同日の午後2時から、法歯学会もオブザーバーに加えてリモートで会議を開きました。議論の焦点は、能登半島に法医を何日間派遣するか、何人派遣するかです。

 警察庁としては、長くいてほしい。ただ、夜は警察署の道場で雑魚寝、水はない、トイレも流せないという状況を聞いて、法医が現地で泊まるのは2泊3日とこちらで決めさせてもらいました。移動日を含め期間は5日間です。

 地震による斜面の崩落などで道路が寸断され、金沢市から能登半島の被災現場まで車で行くのに6時間から10時間かかることもこの時、確認しました。

 派遣先として求められたのは輪島と珠洲。警察庁はこちらの想定以上に人が欲しかったようだが、私は重機が入っていないことを重視しました。東日本大震災で2度派遣された経験から、重機が動いていない時期は遺体の発見がほとんどなかったことを記憶していました。だから、重機が入っていない状況下で、能登に法医を何人出しても仕方ないと言ったのです。

 派遣人数は2カ所に各2人。計4人で頑張ることにしました。新潟大の高塚先生が各大学に声掛けして、人集めを頑張ってくれました。そして、穴水町の土砂崩れで人が埋まっているという情報があったので、第1期派遣の配置は珠洲に2人、輪島に1人、穴水に1人と決め、その日のうちに第3期派遣まで人を押さえています。

 さらに、死体検案書の書き方について統一を図りました。まず、いつ死亡したか。地震発生後すぐ亡くなった場合もあれば、凍死や焼死の場合もあります。そして(外因死の)状況欄には「令和6年能登半島地震による被災」、検案した病院名の欄には「石川県派遣医師団」と記載することなどです。

雨が降る中、「輪島朝市」周辺で安否不明者の大規模捜索に入る警察官ら=2024年1月10日午前、輪島市【時事通信社】

雨が降る中、「輪島朝市」周辺で安否不明者の大規模捜索に入る警察官ら=2024年1月10日午前、輪島市【時事通信社】

 ◇検案場所や死因、先遣隊から情報

 前泊組も含め第1期の4人全員が6日朝、金沢駅で合流し、石川県警の警察車両に分乗して能登半島に向かいました。国道249号に入ったら大渋滞で、全然進まない。1時間で5キロくらい。穴水に着いたのが午後1時すぎで、5時間以上かかったと藤田医科大の小澤周二講師が連絡してきました。この時の情報として、検案されていない遺体が珠洲に22体、輪島に30体と報告されています。

 一方、0次隊として3日に輪島入りした金沢医科大の水上先生からは、廃校になった中学校の体育館で、発電機につなぐ工事用のバルーン投光器の下で検案を行っていることや、朝市の火災現場が手付かずであること、ライフラインがストップし、警察署も停電していることなどが伝えられました。

 水上先生の翌4日の報告で、亡くなった方の死因がさまざまであることも分かりました。胸腹部圧迫9体、顔の閉塞(へいそく)2体、頭部外傷2体、腹部の傷2体、全身挫滅1体、低体温いわゆる凍死4体、焼けて死因がよく分からない方が3体。テキストメールで送ってきてくれました。

 彼も東日本大震災の検案に行っているから、僕らが情報を欲しいのが分かっていたと思います。警察以外の視点、法医の視点から見た現場の状況が提供されたことは、今回良かった点だと思います。とても役立ちました。


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