一流の流儀 「海に挑むヨットマン 」 白石康次郎 海洋冒険家

(第5回)26歳、単独世界1周
父と恩人に支えられ

 白石康次郎さんは、周りの人たちが放っておけなくなる人物だ。危険を冒しても挑戦する姿や、目標に向かうひたむきさに心を打たれるからだろうか。白石さんは多くの人の支えに感謝する。その中でも、ある2人への思いは特別だ。

 ◇師匠の愛艇が欲しい

突然他界してしまった多田さん

突然他界してしまった多田さん

 1990年、世界一周レースにサポートでついていた寄港地のシドニーで、突然、師匠の多田雄幸さんがこの世からいなくなってしまった。主がいなくなって、シドニーに係留されたままの「オケラ8世号」が売り出されることになった。「今度はこの船で、コーちゃんが世界一周をしたらよいよ」と言われていたヨット。お金はない。でも何とか師匠の愛艇を手に入れたい。そう考えた時、頼ったのは父の鉱造さんだった。

 「生まれて初めて父に頼み事をしました。父は『冒険にお金は出せない』とまず一言。『でも、セーリング用のヨットで、安くて良い物があるなら考えてもよいよ』と、結局、数百万円を出してくれたのです。父はいつも黙って僕を信じてくれました」。20歳の白石さんが「ヨットで世界一周をするため、家を出る」と告げた時も、「そうか」と言っただけだった。世間には、子どもを心配するあまり「あれも駄目」「これも駄目」と言い、かえって「恐れ」を子どもに植え付け、何もさせなくしてしまう親もいる。「父は子どもの邪魔はせず、『自分で決めろ』と言うタイプでした。おかげで僕は夢を見ることができたのだと感謝しています」

父と恩人への感謝を忘れない白石さん

父と恩人への感謝を忘れない白石さん

 ◇スポンサー企業なし

 白石さんがヨットを手に入れた頃、27歳の青年が単独無寄港世界一周の最年少記録を打ち立てたというニュースが飛び込んできた。当時白石さんは24歳。師匠の船で世界一周を達成し、最年少記録を更新しよう―。それを足掛かりとして、多田さんが出場した世界一周レースに出たいと考えた。そのためには、まず世界一周に耐えうるようにヨットを修理する必要がある。費用の2000万円を調達するべく企画書を書いて企業30社を半年かけて回ったが、結果は1社の協賛も獲得できなかった。

 「自分なら世界記録を更新できると浮かれている若造に、誰も金など出さないことに気づかされました。でも、どうしても世界一周をしてみたいという情熱は変わりませんでした」

 ◇三度目の正直で記録樹立

 救いの手を差し伸べたのは、白石さんが第二の故郷という静岡県伊豆半島・松崎町の岡村造船所の社長、岡村彰夫さんだった。白石さんは土下座をして、「どうしても多田さんの船で世界一周がしたいのです。しかし、それには大改造が必要なので、どうか僕を助けてください」と懇願した。「岡村さんは、住み込みで、改造のために造船所を使わせてくれた。航海の安全を祈って一緒に船霊(ふなだま)様にお参りに行ったりするなど、岡村さんとご家族は居候の僕に本当に親切にしてくれました」

多田さんの名を取った「スピリット・オブ・ユーコー」

多田さんの名を取った「スピリット・オブ・ユーコー」

 92年10月、1年がかりの改造を終え、「スピリット・オブ・ユーコー」と名付けた師匠のヨットで、念願の世界一周に乗り出す。しかし、出発から9日目、グアム島付近でボルトが抜け、舵が利かなくなった。修理をして、2カ月後に再度挑戦したが、今度はサイパン沖でマストを支えるワイヤが切れてしまうトラブルが発生。挑戦は失敗した。

 日頃の白石さんからは想像もできないが、「失敗した申し訳なさで、この時ばかりは人の目を避け、一時隠れるようにこもってしまいました」と振り返る。しかし、時間がたち、岡村さんに「もう一度船を修理したい」と頼むと、「生きてさえいれば何度でも挑戦できるから」と、受け入れてくれた。
 次に失敗したら帰らない覚悟で臨んだ3度目、出航した松崎港に帰港。白石さんは、26歳で単独無寄港世界一周最年少記録を樹立した。(ジャーナリスト/横井弘海)


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