現代社会にメス~外科医が識者に問う

結婚で名字を変える「違和感」が政界や経済界を動かす大きな力に 一般社団法人あすには代表理事 井田奈穂さん(上)

 日本の民法では結婚するとどちらかが改姓することが義務付けられ、95%が夫の姓を選択する。氏名は人格の象徴であり、アイデンティティーの重要な要素でもあることから、姓を変えることに違和感がある人もいる。また女性の社会進出が進み、婚姻後に旧姓を通称としてキャリアを継続する人が増える中で、不都合や不利益が生じてやむを得ず事実婚を選ぶ人も少なくない。

 「選択的夫婦別姓」は経済界からも声が上がり、法改正の機運が高まっている。選択的夫婦別姓の法制化を目指して活動を続ける一般社団法人あすには代表理事の井田奈穂さんに夫婦同姓が法制化された経緯や日本社会で起きている現状について聞いた。

 ◇「夫婦同姓」はキリスト教由来

 河野 日本の「夫婦同姓」の制度はいつから始まったのですか。

 井田 夫婦同姓は、実はキリスト教の「夫婦一体」の教えから来ていて、男性の庇護(ひご)に女性が入り、「男性が女性を養う」「家事育児介護は妻の役割で夫は外で働く」ことを前提としています。日本は明治30年以前は夫婦別姓でしたが、明治に入って西洋化が進み、外国からの制度や観念、慣習、文化を積極的に取り入れる中の一つに「夫婦同姓」がありました。日本における儒教的な「家」の考え方に合致するということで「家制度」とともに「夫婦同姓制度」が法制化されたのが明治31(1898)年です。当時、女性は法的には無能力者とされ親権も参政権も財産権もない。結婚前に持っていた財産は全て夫のものであり、銀行口座すら自分で持てなかった時代に始まった制度です。

 約120年を経て、女性の社会進出が進み、自分の名前で資産を築き、複数の銀行口座を持ち、登記や投資も可能となりました。自分の名前で社会生活を営む女性が増えている現代でも「婚姻後の改姓の95%は女性」というのは、かつての「家父長制」の名残と言えます。

井田奈穂さん

井田奈穂さん

 ◇改姓に対する違和感と疑問

 河野 井田さんはなぜこの活動に関わるようになったのですか。

 井田 私の最初の結婚は学生結婚で、当時夫の姓への改姓に抵抗がありました。しかし、夫となる人や両方の親から「本家の長男の嫁になるのだから」と言われ、仕方なく改姓しました。しばらくは違和感があり、新姓を呼ばれるたびに気分が沈んでいたのを記憶しています。その後、離婚。私自身、改姓した名前でキャリアを積んできたことや名前を変えたくないという子供たちの意思を尊重し、離婚後も元夫の姓を名乗ることに決めました。40代で今の夫と再婚を考えた時も改姓を避けるために事実婚という形をとっていました。

 ところが、夫ががんの疑いで手術を受けることになり、手術の合意書に配偶者としてサインをする際、法律婚ではないことで断られたのです。やむを得ず遠方に住む高齢の義母に依頼し、負担をかけてしまいました。事実婚のままでは単独で病状説明も受けられず、法律婚にするしかない。名義変更のための膨大な手続きに追われる中、そもそもなぜ改姓しなければならないのか疑問を抱き始めたのです。

 カナダ人と結婚している姉が住むカナダのケベック州では、出自とジェンダー平等を重んじるという理由で改姓禁止法が定められていて、姉は別姓で結婚しています。姉の夫と息子とは国籍が違いながらも家族として不都合を感じたことがないと言います。そこで海外の状況を調べたところ、日本以外の全ての国は夫婦同姓の義務付けがありませんでした。

 自分と同じように名前を変えることで思い悩んでいる人がいるに違いない。改姓を強制されることが正しい社会の在り方なのか、姓を選択できる社会にしたいという思いから2018年に活動を始めました。

 ◇法制化に向け全国規模で活動開始

 河野 一人で始めたのですか。

 井田 法や制度を変えるには司法に訴えて裁判を起こすか、議員に陳情するという方法があります。当時のツイッター(現X)で改姓の苦痛をつぶやいたところ、多くの共感が得られました。裁判は当時、他の方が原告になるとニュースで報じられていたので、私は7人の仲間と一緒にまずは議員数の多い自民党の国会議員に会いに行きました。その方から「いろいろなところで陳情しなさい」とアドバイスされ、中野区の議員を紹介してもらったのです。

 当時の中野区議長のお姉さんが医師で、改姓に苦労されたとのことで協力的でした。その後、たくさんの区議に陳情し多くの理解が示されたので、2018年12月に国に法改正を求める意見書を可決することができました。それが自信につながり、全国から有志を募って「選択的夫婦別姓・全国陳情アクション」という当事者団体を立ち上げ、23年に法人化し、一般社団法人「あすには」となりました。現在、約800人のメンバーとともに地方議会と国会に対して陳情活動を行っています。

河野恵美子医師

河野恵美子医師

 ◇最大のハードルは「政治の壁」

 河野 井田さんの活動は今や経済界も動かすほどの強い影響力となりましたね。

 井田 3年ほど前から政治の壁があまりにも厚いということが分かってきたのです。個人的に理解が得られても、制度化への次の一手は誰も動かない。多方面から攻める必要があると考え、自民党議員から経団連の方を紹介していただきました。イベントや勉強会に声がけして活動を知っていただきつつ、3年後の2023年、団体を一般社団法人化したタイミングで改めてお願いしたところ、同年12月に経団連内で勉強会を開催することができました。

 勉強会では別姓訴訟の元原告で私たちの団体の理事でもある、サイボウズの青野慶久社長とともにビジネス上で被る改姓の不利益や通称使用の限界について解説しました。登記や特許を持つリーダー層の女性たちのみならず、多くの人が仕事上で不都合を感じていること、二つの姓を使用することで企業側にもシステムの改修や確認作業に莫大(ばくだい)なコストがかかること、また、二つ以上の名前の使用はマネーロンダリングのリスクも高まり、セキュリティー対策も必要でコストになっていること、海外出張の際、ビジネス上の通称がパスポートと一致せずホテルの予約ができなかったり、入管で止められたりすること等、個人認証が厳格な今の時代に通称使用は制度疲労を起こしている現状を訴えました。

 すると、「実は私たちも大変困っている」と経団連の女性委員から思いのほか多くの声が上がりました。考えが一致するのであれば、ぜひ政府に法改正を申し入れてほしいとお願いしたところ、翌年の年明けに加藤鮎子女性活躍担当大臣に正式に申し入れたのを皮切りに、十倉雅和会長自ら「これは女性活躍の一丁目一番地だ」と記者会見で語られるなど、次々とアクションに移してくれました。

 経済同友会や新経済連盟等、勉強会を開いてくれた他団体でも提言の取りまとめをお願いしました。どこも打てば響くように動いてくださり、2024年3月8日の国際女性デーには6団体で政府に対し、選択的夫婦別姓導入を求める要望書や署名を提出することができたのです。

 さらに経団連の十倉会長は6月10日の記者会見で、経団連として初めて「選択的夫婦別姓」の導入を求める提言を公表し、国会での議論を急ぐよう求めました。経団連が行ったアンケート調査*2では、通称を認めている企業においても税や社会保険等の手続き書類は認められず、社員の間で混乱を来し、女性役員の約9割は旧姓使用が可能な場合であっても何かしら支障が生じると回答しており、ビジネスのトップリーダーたちが我慢に我慢を重ねてきたことが明らかになりました。

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