一流に学ぶ 「美と健康」説くスポーツドクター―中村格子氏

(第2回)
友人の入院をきっかけに
横浜市大でスポーツドクター目指す


 ◇伝統ある整形外科に入局 

 医学部整形外科学教室の初代教授・水町四郎氏は、戦後の日本における整形外科スポーツ医学の先駆者であり、東京オリンピックにも関わるなどスポーツ医学の発展に尽力してきた。スポーツドクターを目指すには最高の環境だ。

医学部時代の硬式テニス部の仲間と。一番右が中村格子氏
 「実際に入学してみて、小児科や産婦人科にも魅力を感じましたが、結局は整形外科のスポーツ班に入ってやっていきたいと思う気持ちが強くなりました」

 医学部時代は当時、強豪だった硬式テニス部の部長を務め、ダブルスで関東医科歯科リーグでベスト8、チームでは東日本医科学生総合体育大会(東医体)で団体優勝した。部員がけがをすれば、テーピングや応急処置をして、スポーツドクターの卵としてもチームに貢献した。

 さまざまなアルバイトも経験した。「母に『先生と呼ばれるほどのバカはなし』『先生と言われるのが世の中で一番バカ。常識はないし、全然ダメだ』と常々言われて。病院で医者同士が『先生』『先生』って呼び合っているのを見て、この世界にずっといるのがこわくなりました。それで外の世界を見たいと思ったんです」

 医学生のアルバイトといえば、家庭教師が定番だったが、それでは先生と呼ばれることに変わりはない。そこで、ホブソンズのアイスクリーム売り、パーティーコンパニオン、テニスのアシスタントコーチ、選挙の宣伝スタッフなど、友人に「愛読書はアルバイト求人誌」と笑われるほど多職種を経験した。「消費税の計算が大変だったり、レジのお金が合わないと帰れなかったり、やってみないと分からないことがたくさんありました。人生で無意味な経験はない。あとで必ず生きると思うんです」

 医学部を卒業し、整形外科に入局した中村氏。当時の医局で女性医師はただ一人だった。周囲からはかわいがられ、恵まれた環境で医師生活への第一歩を踏み出すことができた。(ジャーナリスト・中山あゆみ)

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