一流に学ぶ 「美と健康」説くスポーツドクター―中村格子氏

(第2回)
友人の入院をきっかけに
横浜市大でスポーツドクター目指す

 中学生で将来の職業として医師を考えるようになった中村格子氏は、高校時代にはスポーツドクターを目指すと決めていた。中学時代の同級生がバスケットボールで膝の前十字靱帯(じんたい)を損傷し、入院先の病院にお見舞いに行った時のこと。

 「その時のスポーツドクターの先生に、とても憧れて。友達から『ここの病院、プロのスポーツ選手とか国体選手とか、すごい人がたくさん入院しているの』と聞いて、そんな病院があるなんて、すごいなと思いました」

 1980年代、まだスポーツドクターの存在は一般的にはあまり知られていなかった。中村氏にとっても未知の世界だっただけに、新鮮に思えた。中学で軟式テニス部、高校ではハンドボール部で活動し、スポーツによるけがが身近だったことも志望の動機になった。

 「日本に導入されたばかりのスポーツテーピングに興味を持って、横浜から渋谷まで講座に通ったりもしました。自分で巻いたり、友達に巻いてあげたりして、こういう仕事がやってみたいと思うようになりました」

 しかし、現役での医学部受験は失敗に終わる。「高校3年までハンドボールをやっていて、受かるわけがないんですよね」

 家庭の経済事情を考えると、おのずと進学先は国公立に絞られた。家からも近く、スポーツドクターを目指すきっかけになった医師が在籍している横浜市立大学に決めた。

 「姉も弟もいるのに、一浪して立場が弱かったんです。『私立も受けたい』と言うと、渋い顔をされました。当時、私立大学医学部の年間授業料は一番安いところで約200万円でしたから、うちは払うのは無理なんだろうなと。公立なら年間30万円でしたから、地元割引のある入学金を入れても6年間で185万円。これなら払えると思いました」

 「浪人は1年まで」と言われ、もし不合格になったら、大学には進学せず、得意の美術を生かしてデザインの専門学校へ行くつもりだった。中学時代に会得した通り、「傾向と対策」に力を入れて受験勉強に専念した結果、翌年、希望通り、横浜市立大学医学部に合格した。

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