一流に学ぶ 天皇陛下の執刀医―天野篤氏

(第16回) 人工弁適合性に気付く =父の死因、20年越しの解答

 天野氏は、父親の体の中にあったDuro Medics弁を形見に持ち続けた。「自分が心臓外科医として一人前になっても、同種の弁を手術で使う際には相当補強して縫っていました。だから震災の時に再手術した患者さんのこともよく覚えていました。1度目の手術でDuro Medics弁を使っていましたから」と語る。

 人工弁は通常、時間がたつと縫合部の周囲がかさぶた状になり人体の細胞となじむ。新たな弁と交換する僧帽弁置換術が難しいのは、細胞でうずもれる状態になった弁の縫合箇所をほどくのが至難の業だからだ。

 しかし、震災時の患者のケースはDuro Medics弁が周囲の組織になじんでいなかった。「10年前に取り付けた時には全く問題がなかったのに、再手術では、まるで縫った直後のような状態で糸を切っただけで簡単に外れたのです」と振り返る。

 大きく揺れる手術室での執刀時には気付かなかったが、患者から手紙を受け取った瞬間、生体適合性の問題が頭に浮かんだという。Duro Medics弁の生体適合性の悪さは、チタンコーティングの黒い色素に原因があったのではないかと考えられている。この弁は改良を重ね、名称も変更された。

 「僧帽弁置換術で弁が外れないようにするには、適合性のいい弁を使うことと縫合の仕方を工夫することです」と天野氏。「この方法で結構ハイリスクの人も救うことができました。今なら父親の手術はそれほど苦労しないです」と語る。

 父親の2度目の手術でSJM弁が使われていたら結果は違ったものになっていただろう。「あのタイミングで手術を決めたのは自分」。手術ミスと考え、治療に関わった人たちを恨んだこともあったが、これを契機にそのわだかまりもなくなった。

 「『おやじ、まあしょうがなかったよね』みたいな感じで。そう思ってから、父親があまり夢に出てこなくなったですね」と天野氏は語る。

 医療技術が進歩しても救えない命は必ずある。ただ、犠牲を無駄にしない思いが、次の命を救う。夢に出たのは、病気発症前の40代の元気な父親の姿。父親を救えなかった思いに突き動かされ、心臓外科医の仕事にまい進した天野氏だったが、震災時の手術が重い十字架を下ろすきっかけになった。

                      (ジャーナリスト・中山あゆみ)

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