一流に学ぶ 日本女性初の宇宙飛行士―向井千秋氏

(第8回)9年待ち42歳で宇宙へ =研究者と面談、投票促す

米スペースシャトル「エンデバー」に乗り込むため点検棟を出発する宇宙飛行士、毛利衛さん(1992年9月、米フロリダ州のケネディ宇宙センター)【AFP=時事】
 スペースシャトルの打ち上げ再開は、事故から2年8カ月後。日本人が乗るディスカバリー号打ち上げは、さらに4年後の1992年9月だった。しかも搭乗する日本人は1人で、毛利衛氏が選ばれた。向井氏は後方支援部隊として手助けすることに。しかし、それでもあきらめず次のチャンスを模索した。

 「運が良かったのは、あの頃スペースシャトルを使って実験する飛行計画が軒並みあって、日本人、外国人にかかわらず、研究ができる人であれば応募ができた」

 宇宙飛行士には、パイロットの他、ロボットアームを操って人工衛星を捕獲するようなミッションスペシャリスト、向井氏のように主に実験を行うペイロードスペシャリスト(PS)がいる。

 当時は、世界各国から宇宙で実験したい研究テーマが100ほど集まり、PSの得意分野によって、実験が振り分けられた。宇宙での実験というやり直しのきかない貴重な機会だけに、地上の研究者たちが実験にかける思いもひとかたならぬものがある。どの飛行士に実験を担当してほしいかを、研究者が投票するというシステムで、世界中から22人の応募があった。そこで向井氏は、各国の研究者のもとへ足を運んで面談、自分に投票してもらえるよう交渉した。

 「先生のところの研究は、今考えているやり方だと宇宙空間では絶対にうまくいかないから、こうした方がいいとか、現地の技術者と一緒に実験してみたりしました。そうすると自分の研究は千秋にやってほしいと選んでもらえるわけです」

 特に生物科学系の研究には、医学的なバックグラウンドのある向井氏が有利だった。毛利氏のサポートを終え、日本に帰国して1週間もたたないうちに、宇宙開発事業団からスペースシャトル・コロンビア号への搭乗が決まったという知らせが届いた。向井氏42歳。宇宙飛行士に選ばれてから9年がたっていた。

 「実際に宇宙に行くまで、ずいぶん長い期間たちましたが、すべての経験、勉強が無駄ではなかったと思いました」

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