女性アスリート健康支援委員会 失敗から学んだ女子指導の鍵

若手の潜在力引き出すベテラン
ママさん選手にも期待―柳本晶一さん

 2003年にバレーボールの全日本女子監督に就任した柳本晶一さんは当時を「どん底だった」と表現する。日本はお家芸とも呼ばれた競技で1990年代に激しい地盤沈下を起こして、2000年シドニー五輪でついに出場権を逃し、02年世界選手権では13位と惨敗。強化関係者が掲げる目標も下がるばかりで、選手の士気にも響くような悪循環に陥っていたという。

 アテネ五輪出場を決め、抱き合って喜ぶ女子日本代表チームと柳本晶一監督(当時、右手前)=2004年5月、東京都渋谷区の東京体育館
 チームの再建を託された柳本さんは、特定の強豪クラブを軸にするチーム編成ではなく、純粋にトップアスリートを選抜する方針で臨み、若手も大胆に登用した。18歳の栗原恵と大山加奈、2歳下の木村沙織は長身でパワーがあり、豊かな可能性を秘めていた。選手がどんどん大型化する時代に世界と戦うには、将来を見据えて彼女らを早くから育てることが不可欠と見抜いた。

 とはいえ、若手の潜在力を引き出すにはベテランの力が欠かせない。そこで、全日本の「若返り」の方針で代表から外されていた吉原知子を7年ぶりに呼び戻す。抜群の技術とリーダーシップを持つベテランはその年、33歳だった。

 柳本さんは東洋紡の監督時代に、女子チームは柱となる選手が複数いると全体を統率しやすくなることを感じた。その経験を踏まえ、シドニー五輪の切符を逃した際に「体が小さい」という理由で戦犯扱いされたセッターの竹下佳江とともに、惨敗した世界選手権で主将を務めた高橋みゆきも引き続きチームの中心として重んじた。吉原との三本柱が、若手の手本となってチームを引っ張ってくれることに期待をかけた。

 ◇若いメグカナが闘争本能刺激

 全日本女子監督就任当時のバレーボール界が陥っていた状況を「いけす」に例えて説明する柳本晶一さん
 柳本さんは当時のバレーボール界が陥っていた状況を「いけす」に例えてこう説明する。

 「中で泳いでいる魚は選手です。昔は目標という餌が投げ込まれたら、自信を持ってガーッと行きましたよ。なのに餌を減らされ、しかも水槽の中には仕切りまで入れられて。『君たちは狭いところで泳いでいなさい』と。ガラスの仕切りの向こうに餌があるのが見えるのに、魚たちはもう食いつかなくなってしまうんです」

 そんな仕切りを取り除き、生きのいい魚を泳がせたかった。それが後に「メグカナ」と呼ばれて人気を集めた栗原と大山だった。たとえば、キューバに押されっぱなしの試合。ベテランは「頑張ろう」と言いながらも、守りに入りがちになる。しかし、栗原と大山は空気など読まずに、『行けますよ』と強気に言い放った。

 「あいつら、怖いもの知らずですから。そこでベテランが『きょうはメグカナにちょっとボールを集めてみようか』と。新しいゲームメークが始まると、ボッコンボッコンとばか当たりして、計算外のことも起きる。粗いから決まらんときもあるけど、そこを調整するのがベテランの役目なんですね」

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