女性アスリート健康支援委員会 日本女子初の五輪メダリスト

小出義雄監督の勘違いが始まり
~有森裕子さんが語るマラソン人生(2)~

 ◇気持ちだけで入社したリクルート

 1992年バルセロナ五輪女子マラソンで銀メダルを獲得し、マラソンでは日本女子初のメダルを獲得した有森裕子さん。4年後のアトランタ五輪でも銅メダルを手にし、2大会連続のメダリストとなった。陸上との出会い、トップランナーになるまでの道のり、女性特有の生理の問題、障がい者スポーツとの出会い、副会長を務める大学スポーツ協会(UNIVAS)などについて話を聞いた。

 中長距離の名指導者だった故小出義雄さんに「体の素質はないが、一番大事なのは『やる気』。根拠のない『やる気』に興味がある」と言われてスタートしたマラソン人生。有森さんは「待っているのではなく、自分から動くことの大切さ」を説いた。インタビューには、スポーツドクターの先駆けとして長年活動し、陸上の強化で有森さんとも交流がある一般社団法人「女性アスリート健康支援委員会」の川原貴会長もオブザーバーとして参加した。

笑顔の有森さん

笑顔の有森さん

 ―実業団で入社したのがリクルートだったわけですね。

 「私は実績も何もない。普通は勧誘される、もしくは、どなたかに推薦していただくしか実業団での入社はありません。ところが、ある日、友人から『リクルートがあるよ。走りたければ誰でも良いみたいよ』と言われました。ちょうど、あのリクルート事件があったタイミング。誰も入りたがらない状況の中、通常にはない空きがあったわけです。『入りたきゃ誰でもいいんだ。よし、リクルートしかない』と思ったわけです」

 ―1988年に発覚したリクルート事件ですね。リクルートの関連会社で上場していなかった不動産会社の「リクルートコスモス」が未公開株を政治家や官僚らに譲り渡した贈収賄事件です。当時としては戦後最大の企業犯罪として連日のように報道されました。

 「そうです。『誰も入りたがらないから、入りたければ誰でもいいんだ。もうリクルートしかない』と思い、関係もないのに、神戸で行われていた高校インターハイに行きました。そこでリクルートの人を見つけ、『有森といいます』と唐突にあいさつし、勝手に自己紹介させていただきました。後は返事を待つだけでした。そして待つこと10日目、小出義雄監督から電話がありました。『君、走っていたらしいけど、僕、最近もの忘れが激しいから、会ったら思い出すかもしれないから来てよ』と。会ったこともないわけですから、完全に小出監督の勘違いなのですが、『チャンスが目の前にある!!』と直感し、『では千葉まで行きます』と、次の日に千葉に行きました」

 「実際に会ってみて、小出監督は私と会ったことがないことに気付かれました。国体、インターハイの成績や駅伝の区間賞は何回などと聞かれましたが、成績としては全く駄目ですから、『岡山で一番弱い子が来た』と。それでも追い返すことはなく、『よく、そんなので陸上を続けてきたね。でもね、素質とか実績とか大事ではあるが、一番大事なのは、やる気だからね。それにしても、びっくりしているよ。そんな成績で、ここまで会いに来たとは。そんな選手は初めて。でもその根拠のないやる気に興味がある』と言われました。『大学では何かやっていたの』と聞かれ、『寮長をやっていました』と答えますと、『しっかりしているんだね』。実際は、『じゃんけんで負けて寮長になっただけなのに』と思っていたわけですが、小出監督は『有森さんのやる気を買いたい。会社に言ってみるよ』と言ってくださいました」

 ―それで合格の通知が来たのですね。

 「連絡をすぐくれるとは言ってくださいましたが、『無理かもしれないな』『分からないな』と思いながら待っていました。そうしたら2日後にリクルートの人事の方からご連絡をいただき、『通常の我が社の採用条件だと採用できないところですが、今の状況で一番欲しい人材はやる気のある人なんです。わが社は今ピンチですが、わが社のピンチをご自身のチャンスに変えて、ランニングクラブで頑張ってください』と言われました」

 ―担当者はなかなか良いことを言ってくれましたね。

 「はい。親にも相談せず、事後報告で1989年に入社しました。リクルート事件真っただ中の頃です。これが私のバックグラウンドですから、すべての人に勇気を与えられます」

 ―そこから五輪までのまだまだ長い道のりがあるのですね。

 「入社して、ふたを開けてみたら、実は小出監督はマネジャーが欲しかったようです。一緒に入った選手は、みんな高卒で大卒は私1人。大卒は生意気で育てづらいというイメージがあったようで、寮長をやっていたのだから他の選手の面倒を見るのは得意ではないかと思っていたようです。とにかく走らせても誰よりも遅いし。一緒に入部したのは6人でしたが、みんな高校チャンピオンとか中学チャンピオンの選手ばかりでした。でも、社会人になったのだから、これから頑張って、まずは出場資格のあった国体予選にでも出ようと思っていたら、登録を忘れられていたことが分かりました。会社のミスで参加すらできませんでした。あり得ないと思いましたが、自分が選んで会社に入れてもらい、今その会社に自分がいるのだから、もう実績を出すしかないと思い直しました。『ようし、見ていろよ』と切り替えたのが、入社1年目の秋でした」

 ―具体的にどのように切り替えたのでしょうか?

 「『(ロードの)10キロとか(トラックの)1万メートルとかでは(トップで)戦えないだろう』『私のスピードでは無理だろう』と思いました。そこで、当時まだ(競技者数が)少なかった『マラソンなら、やればやった分だけ伸ばせる』と思い、小出監督に言いました。監督は『お前は体の素質はない。体の才能は大事だけど、お前の気持ちの素質は世界一だから、もしかしたら体の素質の選手を超えることができるかもしれない。それを大事にしろよ』と言われました」

 ◇初マラソンで日本最高記録

 ―これは小出マジックと言われた独特の言葉だったのでしょうか。

 「その時は、そんなふうには考えられませんでした。何せ登録を忘れられて出場できず、謝りもしてくれませんでしたから、小出監督に対しては多少なりとも頭にきていました(笑)。でも、『マラソンの練習させてくれ』と言ったのは自分の方で、走ってみると意外に走れるということが分かりました。『10キロなんてマラソンの距離の4分の1じゃない。大したことない』と思えるようになり、3キロ、5キロ、10キロと、すべての持ちタイム(自己ベスト)が伸び、ロードレースでも上位に入ることができるようになり、全日本実業団対抗女子駅伝競走大会もその年に走ることができました。これが入社した年の12月で、翌90年1月の大阪国際女子マラソンで2時間32分51秒を出して6位に入りました」

 ―このタイムが初マラソンでの日本最高記録だったのですね。

 「そうです。実はレース前に脚を傷めていたので、小出監督は出場に反対でした。しかし、私としては親も応援に来るはずだし、『出たいです』と言って出ました。そうしたら、初マラソンで日本最高記録に。これが認められて強化選手になり、初めて海外での高地トレーニングに行けることになりました。でも、レース後に傷めていたじん帯の痛みがひどくなり、しばらくは走れる状態ではありませんでした。だから監督も海外に行かせたくはなかったようですが、『まあ気分転換にはなるだろう』程度の感じで、夏場に米国コロラド州のガニソンという所に行かせてもらえました」

 ―川原会長が冒頭に話していた、「練習後にバスに乗らずに自転車で帰った」という話につながるわけですね。

 「監督もいませんから、好きなようにやらせてもらいました」

 ―翌年、2回目のマラソンも大阪国際女子でした。

 「ガニソンでの夏の合宿後は、国内の大島で合宿しました。結構、良い走りができていたのですが、周囲からは『1回目が良かったら、2回目は絶対に失敗する』と言われまして、『そんなジンクスは有森が破ってやります』と記者会見でも話して出場、2時間28分1秒の日本最高記録が出ました。ゴールする前に喜びすぎて、ガッツポーズを何度もやったせいで28分を切り損ないましたが…(笑)」

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