女性アスリート健康支援委員会 日本女子初の五輪メダリスト

小出義雄監督の勘違いが始まり
~有森裕子さんが語るマラソン人生(2)~


 ◇もめた五輪代表の選考

 ―それが91年1月ですが、その年には世界選手権が東京でありました。

 「この日本最高記録で引っ掛かり、世界選手権の代表になることができました。東京開催ということもあり、ものすごく国内での注目度も高く、盛り上がりました。ただ、私は調子がもう一つで、結果は4位に終わりました。しかし、国内での世界大会ということで、4位でも大きく持ち上げられました。海外での大会だったら、同じ4位でも全然違っていたと思います。これは運が良かったですね」

 ―「運が良かった」というのは、その翌年92年バルセロナ五輪の代表に選ばれることにつながったという意味でしょうか。

 「そうですね。五輪代表の選考基準にあいまいな部分がありましたので、もめにもめました。代表になれるのは3人で、山下佐知子さんは世界選手権で銀メダルでしたから、すんなり決まりました。私は4位でしたが、この4位をどう扱うか、世界選手権の上位入賞についての扱いが決まっていませんでしたので、最後までもめたわけです。私は国内選考会となる大阪国際女子に出る予定でしたが、脚を傷めていたため参加を見送りました。その大会で小鴨由水さんが2時間26分26秒の日本最高記録で優勝し、松野明美さんも2時間27分2秒の日本最高記録で2位でした。2人目の代表は小鴨さんで決まりでしたが、3人目を世界4位の有森にするか、日本記録を更新した松野さんにするかで大もめにもめたのです」

 ―最終的には有森さんに決まりました。

 「世界選手権が暑い夏の開催で、バルセロナも夏の開催でしたから、それも有利に働きましたが、『有森は脚を負傷していて走れないのではないか』という声も出たため、10キロのロードレースを立て続けに2度走って自己ベストをマークして優勝し、元気なところを見せることができ、その疑念を晴らしました。これが決め手になったのか、最終的に私に決まりました」

 ―その後も選考基準については、もめることがありましたが、今はマラソン・グランド・チャンピオンシップ(MGC)の方式が採用され、かなり明確化しました。

 「そうですね。MGCができたことで、もめることはなくなりました。選手は自分が出たいというレースに出て、明確な目標を持って臨むことが大事です。複数年の選考レースを基に、五輪前年のMGCで勝負すればいいわけです」

インタビューに答える有森さん

インタビューに答える有森さん

 ◇エゴロワとの激戦、日本女子初のメダル獲得

 ―話は戻りますが、バルセロナ五輪では35キロ付近で先頭のワレンティナ・エゴロワ選手(ロシア)に追い付き、最後の最後まで競り合い、日本女子マラソン界で初のメダルとなる2位となりました。

 「エゴロワさんの走りを見たときに、同じ女性とは思えなかった。モンジュイックの丘の坂をぐんぐんと登っていく走りはすごかったです。これを見て、『もっと強くなりたい』と思いました」

 ―日本選手最初のメダリストになったのだから、もう引退しようとは思わなかったのですか。

 「やはり金ではなく銀でしたから。バルセロナでは、『メダルを獲得したら死んでもいい』と思って走っていました。でも、4年後のアトランタ五輪で銅メダルを獲得した時には、『ゴールしたら生きていかなくちゃ』と思いました。生きるために走っているのだから、『これから生きなくては』と。同じメダルでも、気持ちは全然違っていました」

 川原会長 その間、無月経とか貧血とかはなかったのですか。

 「生理はちゃんと来ていました。でも、大事な時に故障をしていました。体が悲鳴を上げて故障しますが、結果的に休むことで体が正常化します。同僚には数年生理が無いという人もいました」

 川原会長 指導者から体重制限とかを言われたこともなかったようですね。

 「ありませんでした。指導者がやはりそういう知識を持っていることは大事です」

 ―押し掛けで始まったマラソン人生でメダルを獲得するまでのお話はとても面白かったです。

 「思い返せば、全部押し掛けですね。中学校も高校も社会人も、みんなそうですね。どうしてこういう話をするのかというと、才能があるのに、みんな待っているからです。才能を持とうが持つまいが、自分から動いて、つかもうとすれば、それを見ている人がいて、道を切り開いてくれるかもしれません。私は競技者として、すごく優れていたわけではないので、生きていくためにやったことでした」

 ―結果として、競技者としても優れていたのではないでしょうか。

 「生きていくためにやったことが、競技者としても生きたということだと思います。今の選手は競技のためだけにやっている感じです。『引退したらどうしよう』なんて言う人もいますが、『競技者ではなく人間として生きなさい』と言いたい。そうすれば、表現の仕方、表現の場も広がります。『女性だから』ではなく、『人間として』どう生きるかが大事だと思います」(了)

 有森裕子(ありもり・ゆうこ) 1966年12月17日生まれ、岡山市出身。就実高校、日本体育大学を経てリクルート入社。92年バルセロナ五輪の女子マラソンで日本女子初の銀メダル、96年アトランタ五輪でも銅メダルを獲得。公益財団法人・日本陸上連盟副会長、公益財団法人・スペシャルオリンピックス日本理事長、一般社団法人・大学スポーツ協会(UNIVAS)副会長、公益財団法人・日本障がい者スポーツ協会理事。認定NPO法人・ハート・オブ・ゴールド代表理事、2010年国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞、同年津田梅子賞など受賞歴多数。

  • 1
  • 2

【関連記事】


女性アスリート健康支援委員会 日本女子初の五輪メダリスト