「医」の最前線 行動する法医学者の記録簿

あの時、東北の死体検案所で見たものとは
~法医学会初の被災地派遣―長崎大医学部長~ 【第1回】

津波が押し寄せた福島県南相馬市でぼうぜんと立ち尽くす男性=2011年3月12日【時事通信社】

津波が押し寄せた福島県南相馬市でぼうぜんと立ち尽くす男性=2011年3月12日【時事通信社】

 ◇海から、そして冷たい土砂の中から

 午前7時前くらいに機動隊のバスで出発し、高速を使って福島へ向かいました。路面は地震の被害を受けてがたがたで、スピードが出せず、すごく時間がかかりました。地理に詳しいわけでもないし、情報も全くないので焦りを感じましたが、出たとこ勝負と腹をくくりました。

 郡山だったと思うんですが、センターのような所に着いたのが午後3時くらいです。そこから相馬の現場に、機動捜査隊の覆面パトカーに分乗して行ったんです。

 到着した(臨時の)検案所は、工場の跡地でした。ここがよかったのは、明かりがあったことです。水もあった。だから、持ってきたはけとかはもういらんわけです。

 結果的には何も持っていかなくてよかったんです。東京都監察医務院が備蓄物資を全部出してくれたので。混乱していて、聞いてないわけですよ。学会の幹部はちゃんと情報を流したと言っていましたが、末端には伝わっていなかったわけです。

 暗くなったら危ないということで、夕方になると無理やり帰されるんです。磐梯熱海に宿を取ってもらって、相馬から通っていたんです。3時間くらいかかりました。それが無駄だということで、相馬のビジネスホテルを見つけてもらい、泊まるようになったんです。

 地元の名士だったみたいで、私たちを喜んで迎え入れてくれました。その方は、市議が何人か逃げ出したと怒っていました。被ばくの話とかがあって、真っ先に逃げたと。

津波で流された車に人がいないか調べる消防団員=2011年3月12日、福島県南相馬市【時事通信社】

津波で流された車に人がいないか調べる消防団員=2011年3月12日、福島県南相馬市【時事通信社】

 工場跡地は広い場所で、そこに台を置いて検案を行うのです。身元の分からない遺体は歯科医が歯を使った年齢推定などもやります。そして、震災後、まだ肉親が戻ってこない家族が見に来るわけですが、問題点もありました。

 私たちが遺体について「60歳代」と記載してしまうと、対象が70歳以上の場合、もう見ないんです。私たちが言う60歳は、75歳くらいまで入るんですが。そういった意識の乖離(かいり)が、身元特定で少し遅れを生じさせたかなと思っています。もう少し幅を広く取るべきだった。ちょっと情報発信の仕方を間違ったかなと。

 福島では他に南相馬の高校の体育館にも行きました。運び込まれるのは、海から流れてきたり、土砂に埋まっていたりした遺体です。津波の後の泥を重機で掘り起こして見つかるんです。原発周辺は人が入れなくて、遺体はそのままでした。

 状態は基本的にきれいでした。死後硬直は2、3日で解けてくるんですが、1週間でもまだ残っていたりして。東北は寒く、しかも冷たい土の中に埋まっているわけですから。海の水も冷たいですから。カスパーの法則というのがあって、死後変化の進み方は、地上を1とすると海の中が2分の1、土の中が8分の1です。

 損傷の大きなものは、焼けたご遺体。車の中で発見されます。海水でショートを起こして車が燃え上がって焼損するようです。体の一部が欠損しているご遺体もあります。津波で流されて物に当たったりしたのでしょう。ただ、そういうのは珍しいですね。

 工場跡地内には遺体安置所もありましたが、パーテーションがあり、(検案エリアとは)距離が取られていました。南相馬の高校については、検案を行っていた体育館とは別の場所に遺体が安置されていました。


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