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日本における不登校の歴史 【第2回】

 ◇1960~70年代:不登校への理解の深まり

 戦後、特に1960年代に入ると、不登校に対する理解が大きく変化し始めます。60年、英国の児童精神科医L.A.Hersovが初めて「登校拒否(School Refusal)」という用語を用い始めたとされています。これは日本にも導入され、それまでの「怠学」に代わる新しい概念として受け入れられていきました。

60年代に入ると、不登校に対する理解が変化する(イメージ図)

60年代に入ると、不登校に対する理解が変化する(イメージ図)

 「登校拒否」という用語の登場は、不登校を単なる怠慢ではなく、心理的な問題として捉える見方の始まりを意味しました。この時期、母子分離不安説など、精神分析的な解釈が主流となり、不登校の原因を家庭環境、特に母子関係に求める傾向が強まりました。

 また、60年代後半には「学校恐怖症」という概念も導入されます。これは、学校に対する強い不安や恐怖心から登校できない状態を指す言葉でした。この概念の導入により、不登校の子どもたちの心理的苦痛が、より注目されるようになりました。

 この時期の不登校への対応は、主に医療や心理療法的なアプローチが中心でした。子どもの心理的問題を解決し、学校復帰を目指すことが主な目標とされていました。しかし、このアプローチには限界もあり、不登校の原因を個人や家庭のみに求めすぎるという批判も、後に生まれることになります。

 80年代に入ると、不登校の問題は、個人や家庭の問題から社会全体で取り組むべき重要な教育課題へと認識が変化していきました。この背景には、不登校児童生徒数の急増がありました。

 文部省(現文部科学省)の調査によると、74年度に中学校で約1万人だった不登校生徒数は、80年代後半には3万人を超えるまでに増加しました。小学校でも同様の傾向が見られ、社会的な関心が高まっていきました。

 この時期、不登校問題はマスメディアでも頻繁に採り上げられるようになります。新聞やテレビで不登校特集が組まれ、社会の注目を集めました。これにより、不登校に対する社会の理解が深まる一方で、不登校を「問題」視する風潮も強まりました。

 80年代の不登校増加の背景には、学校教育システムそのものへの問題提起がありました。受験競争の激化やいじめ問題の顕在化など、学校を取り巻く環境の変化が不登校の要因として指摘されるようになったのです。

 この時期、東京シューレなど、学校外の学びの場としてのフリースクールが設立され始めます。85年に設立された東京シューレは、不登校の子どもたちの居場所づくりと、従来の学校教育に代わる新しい学びの形を提案しました。これは、不登校への対応が多様化していく契機となりました。

 また、83年には文部省が初めて「登校拒否はどの子どもにも起こり得る」という見解を示し、不登校を特別視せず、より柔軟に対応する姿勢を打ち出しました。これは、不登校に対する社会の見方を大きく変える転換点となりました。

 このように80年代は、不登校が社会問題として広く認識され、その対応策が模索され始めた時期と言えるでしょう。個人や家庭の問題としてのみ捉えられてきた不登校が、教育システムや社会の在り方そのものを問い直す契機となったのです。

 ◇1990~2000年代:不登校への対応の多様化

 1990年代に入ると、不登校への社会の理解と対応がさらに変化し、多様化していきました。

 92年、文部省は「登校拒否(不登校)問題について」という通知を出し、公式に「登校拒否」から「不登校」への用語変更を行いました。これは、不登校を子どもの側から見た現象として捉え直す試みでした。この通知では、不登校を「どの児童生徒にも起こり得る」として、特定の子どもや家庭の問題ではなく、学校や社会全体の課題として認識する姿勢を示しました。

 この時期、フリースクール運動がさらに広がりを見せます。92年には、全国にあるフリースクールのネットワークとして「フリースクール全国ネットワーク」が設立されました。これらの動きは、従来の学校教育とは異なる学びの場や方法を模索する試みとして注目を集めました。

 2002年には、文部科学省が「不登校児童生徒への支援の在り方について」という報告書を発表しました。この報告書では、不登校児童生徒の自立支援が強調され、必ずしも学校復帰のみを目標とするのではなく、社会的自立を目指す支援の必要性が示されました。これは、不登校への対応が「学校復帰」一辺倒から、より多様な選択肢を認める方向へと変化していったことを示しています。

 また、この時期には不登校特例校の設置も始まります。03年に開校した広島県立広島国泰寺高等学校奨励分校(現在の広島県立広島みらい創生高等学校)は、日本初の公立不登校特例校として注目を集めました。これは、公教育の枠内で不登校生徒に対応しようとする新たな試みでした。

 さらに、2000年代には情報通信技術(ICT)の発展に伴い、不登校児童生徒への支援にもICTが活用されるようになりました。例えば、インターネットを通じた学習支援や、メールやチャットを利用した相談支援などが行われるようになりました。

 このように、1990年代から2000年代にかけて、不登校への対応は多様化し、個々の子どもの状況に応じた柔軟な支援が模索されるようになりました。不登校を「問題行動」としてではなく、子どもの成長過程における一つの可能性として捉える視点が徐々に広がっていったのです。


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