ダイバーシティ(多様性) Life on Wheels ~車椅子から見た世界~

9歳で感じた恐怖と葛藤
~足が動かなくなった「運命の日」~ 【第2回】

 こんにちは。車椅子インフルエンサーの中嶋涼子です。

 私は現在35歳。9歳の時に原因不明の病気で、突然足が動かなくなってから25年以上、車椅子で生活しています。どこへ行くにも一緒の「私の相棒」である車椅子を使うことになった日のことは、今でも忘れることができません。

車椅子はどこへ行くにも一緒の「相棒」

 ◇足が動かない!

 風邪で学校を数日休んだ後、いつも通り登校した1996年1月16日。母に買ってもらったピンク色の新しい靴を履き、いつも通り遅刻しそうになりながら猛ダッシュで校庭を走って教室に入りました。

 そして、いつも通り2時間目と3時間目の間の20分休憩中に、友達と校庭の鉄棒で遊んでいた時のことです。鉄棒に足を掛けてぶら下がる「こうもり」を、誰が一番長く続けられるか競う「こうもり大会」で、友達が次々とギブアップしていく中、私は5分ほどぶら下がって優勝しました。そして鉄棒から地面に着地した瞬間、足に力が入らなくなりました。

 ずっと頭を下にしてぶら下がっていたから、めまいを起こしたのかと思い、友達に抱えてもらって保健室に行きました。その時はフラフラしながらも歩くことができたのです。でも、保健室の椅子で休んでいる時に、ふと立ち上ろうとしたら、床に転げ落ちてしまいました。

 「足に何が起きているんだろう…」。床の上にうずくまりながら、自分の足が思い通りに動かなくなっていることに気付いた、あの時の怖さは一生忘れることができません。

 お昼休憩に友達が保健室に遊びに来て、みんなでトランプをしていた時、太ももに激痛が走りました。雑巾を絞るような痛みが波のようにやってきては治まる。その間も友達とトランプを続けていたのですから、子どもの遊びへの執着ってすごいですよね。

足が動かなくなるまでは運動が大好きな女の子だった

 ◇初めての車椅子

 その後も痛みは繰り返し、タクシーで近くの大学病院へ行きました。そこで、人生で初めて車椅子に乗りました。待合室で隣にいた人も車椅子。重度の障害があるようでした。それまで、車椅子なんて自分とは関係ない、格好悪い、乗っている人はかわいそう、と思っていたのに、隣の人と同じ状況になったことが嫌で、恥ずかしくて、涙を必死にこらえました。

 あまりの痛みとショックで、そこからの記憶がないのですが、気付いたら私はベッドの上にいました。鼻から管を入れられ、口には呼吸器を付けられ、点滴につながれて身動きもできません。たまたま病室のドアが開いていて、母が友達のお母さんに向かって泣き崩れている姿がカーテン越しに見えました。

 「いつも明るくて元気なママがあんなに泣いている」。自分に何か重大なことが起きているんだと気付きました。「私は一体どうなってしまうんだろう…。早く家に帰りたい」。そう思っていましたが、そのまま初めての入院生活が始まりました。

 数年たってから母に聞いたのですが、この日、母は医者から「このまま進行して足より上も、まひしてしまうかもしれない」と言われたそうです。ステロイドを投与すれば、まひの進行は止まるかもしれないけれど、身長が止まってしまうリスクもあると説明され、母は先生にステロイド治療をお願いしました。母が泣き崩れていたのは、そんな過酷な選択を迫られていたからでした。幸い、おへその付近で進行は止まり、25年たった今も、おへそから下の感覚だけが完全にまひしている状態です。

卒業文集の1ページ

 ◇「こっち側の人間」

 まひ症状の原因が分からなかったため、数日後、脳神経疾患専門の東京都立神経病院に転院しました。同じ病室には、いろんな障害を抱えた子どもがいました。脳神経に疾患のある知的障害の子、進行性の難病で寝たきりの子、夜中に突然奇声を発する脳障害の子…。最初はそれが嫌でした。

 ある夜、ふと目を覚ますと、夜中に徘徊(はいかい)してしまうダウン症の子が私の人形を抱いてベッドの前に立っていて、本当に怖かった。でも、慣れたら何とも思わなくなりました。

 神経病院で3カ月過ごす間に、世の中にはいろんな病気の人がいることを知り、考え方が少し変わりました。自分は足が動かないこと以外は何でもできる、思ったことを言葉で伝えられるし、手も動く。車椅子に乗れば移動もできる。私はよく「いろんな人に対して壁がないね。コミュニケーションがうまいね」と言われるのですが、この時の経験があったからだと思っています。

 ベッドの上で寝たきり状態の日々が終わり、初めて自分で車椅子をこぐ練習をした時は、複雑な気持ちでした。方向転換の仕方すら分からず、試行錯誤の連続。「これからは、これに乗らないと動けないのか」と気持ちが沈んだのを覚えています。

 リハビリルームに行くと、重度の障害がある人、精神疾患のある人、みんな大変そうな人ばかり。自分も「こっち側の人間」なんだと改めて思ったら急に悲しくなり、涙があふれてきました。今では前輪を上げる技も覚え、どんな場所でも一人で行けるほど使いこなしていますが、多分、あの時、私はプライドを捨てないと生きていけないと悟ったんだと思います。それからは、悲しいことや、つらいことがあっても平気なふりをするようになりました。

慶応大学病院で入院生活に慣れてきた頃の中嶋さん(左)

 ◇衝撃の宣告

 病院生活に何とか慣れようと頑張っていても、制約の多い状況は精神的には限界だったようで、だんだん病院食が食べられなくなり、拒食症になってしまいました。神経病院は食べ物の持ち込みが禁止だったので、見かねた両親が転院先を探し、慶応大学病院の神経内科に移りました。

 慶応病院の自由な雰囲気が私には合っていたようで、先生や看護師さんと仲良くなり、気付けば入院生活をエンジョイしていました。体調もだんだん安定していき、学校の宿題なども病院でこなせるまでになりました。

 そんなある日、母との何気ない会話の中で衝撃的な宣告を受けました。「でもりょうちゃん、一生歩けないみたいだから…」。うすうすは感じていたものの、いつか歩けるようになるだろうと少しは希望を持っていたので、頭の中は真っ白。その後の会話はあまり覚えていません。

 多分、母は、私が最初の病院に入院した日に、そう医者から告げられていたのでしょう。つらい現実を約半年間、私に伝えられないまま一人で抱えていたのだと思うと、今でも胸が苦しくなります。病気って、本人よりも、周りの家族の方がつらいものなのかもしれません。母が数年前にがんになった時、私が歩けなくなった時の母の気持ちが分かった気がしました。(了)


中嶋涼子さん

 ▼中嶋涼子(なかじま・りょうこ)さん略歴

 1986年生まれ。東京都大田区出身。9歳の時に突然歩けなくなり、原因不明のまま車椅子生活に。人生に希望を見いだせず、引きこもりになっていた時に、映画「タイタニック」に出合い、心を動かされる。以来、映画を通して世界中の文化や価値観に触れる中で、自分も映画を作って人々の心を動かせるようになりたいと夢を抱く。

 2005年に高校卒業後、米カリフォルニア州ロサンゼルスへ。語学学校、エルカミーノカレッジ(短大)を経て、08年、南カリフォルニア大学映画学部へ入学。11年に卒業し、翌年帰国。通訳・翻訳を経て、16年からFOXネットワークスにて映像エディターとして働く。17年12月に退社して車椅子インフルエンサーに転身。テレビ出演、YouTube制作、講演活動などを行い、「障害者の常識をぶち壊す」ことで、日本の社会や日本人の心をバリアフリーにしていけるよう発信し続けている。

中嶋涼子公式ウェブサイト

公式YouTubeチャンネル「中嶋涼子の車椅子ですがなにか!? Any Problems?」



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