ダイバーシティ(多様性) Life on Wheels ~車椅子から見た世界~

車椅子で見つけたありのままの自分
~多くの人に支えられて~ 【第16回】

 こんにちは。車椅子インフルエンサーの中嶋涼子です。

 この連載も今回で最後となります。9歳の時に突然、原因不明のまま車椅子生活を送り始めてから、たくさんの人たちに支えられてここまでやってきました。一度どん底を味わいながらも、多くの人たちとの出会いがあって、今では車椅子の自分が好きにさえなり、人生を楽しむことができるようになりました。この場を借りて、感謝の気持ちを今まで伝えられなかった方々にも伝えたいと思います。

車椅子生活のリアルを描く「カイルとリョーコ」

 ◇ドラマに初挑戦

 車椅子ユーザーとしての体験を発信することで、障害者と健常者を隔てる壁を壊したいと考え、「車椅子インフルエンサー」として活動してきましたが、思いがけない展開もありました。その一つがドラマの撮影です。

 きっかけは、私が2019年に山形で車椅子パラグライダーに挑戦した時のドキュメンタリーを制作してくれたチームと新たに作る予定だった旅番組が、コロナ禍でキャンセルになったこと。突然仕事を失った制作チームの中から「スタッフの家でドラマを撮ってみよう」という話が持ち上がり、人生で初めてドラマに出ることになりました。

 外国人俳優のカイル・カードとの共演で、タイトルは「カイルとリョーコ」。外国人と車椅子ユーザーという、普通とは少しだけ違う2人が日本でルームシェアをしているという設定で、マイノリティーの立場から社会に向けたメッセージも盛り込んだホームコメディーです。「演技をする」という初めての経験に戸惑いましたが、車椅子でドラマに出演することにチャレンジできて、とてもうれしかったです。

 日本では俳優さんが車椅子に乗って演技をすることはあっても、障害当事者がドラマや映画に出ているのをあまり見掛けません。でもアメリカでは障害者やLGBTなど、マイノリティーと呼ばれる方々が劇中に必ず出てきます。

 日本でも当たり前のようにドラマや映画、バラエティーやニュース番組などに出演すれば、もっともっと障害者が少数派の存在ではなくなって、障害者と健常者の間にある壁がなくなると思っているので、ドラマ出演は自分の中でとても大きな出来事でした。近々、「カイルとリョーコ:シーズン1」が配信されるので、ぜひ見ていただけたらうれしいです。

兄のお姫さま抱っこでハワイの海へ

 ◇兄のこと

 26年前の冬、突然、下半身まひで車椅子に乗るようになって、私の人生だけでなく家族の生活も一変しました。わが家は父、母、四つ上の兄、私の4人家族。父は映像制作の会社を経営しており、母は主婦として子どもたちに愛情を注いでくれるような家庭でした。

 私が歩けなくなり、先の見えないまま入院生活が始まると、母が毎日病院に行くため、中学生だった兄は電車で1時間ほど離れた祖父母の家に預けられました。

 それまでは、ぜんそく持ちの兄の方が夜中に突然発作が起きて母と救急病院に行くようなことがよくあり、私は逆に病院とは無縁の健康体でした。私が入院することになり、兄は母親が突然妹にかかりっきりになって本当に寂しかっただろうし、不安だっただろうと思います。感じやすい思春期ですからね。ところが兄はその後、私が車椅子になったのと引き換えたかのように、ぜんそくが良くなり、それ以来、救急病院にかかることもなくなっていきました。

車椅子になる前はいつも兄と一緒

 子どもの頃、兄と私はとても仲が良く、私はいつも兄の後に付いていって、兄のまねばかりしていました。殴り合いのけんかもよくしました。私が歩けなくなってからは車椅子を押してくれたり、階段でお姫さま抱っこをしてくれたり、いろいろとサポートをしてくれましたが、以前のように外で遊ぶことができなくなって、あまり話さなくなってしまいました。

 大人になってからも、たまに会うと少し話すくらいで、私が車椅子になってから少しだけ距離ができてしまったように感じます。あの時、母を独り占めしてしまったことを、ずっと申し訳なく思っています。

 兄は学生時代にロッククライミングに目覚め、今は東京都内でクライミングジムを開いています。結婚して子どもも生まれました。今、母は兄の子どもに愛情を注いでいます。

 ◇今分かる家族のつらさ

 私が突然歩けなくなって一番つらかったのは母だと思っています。多分、私以上につらかったでしょう。当時の私は、気が付いたら病院で寝たきりのまま鼻に管を入れられていて、状況がのみ込めていませんでしたが、一生歩けなくなるとは思ってもみませんでした。数年前に母ががんになった時、母がいつどうなるか分からないと思うと悲しくて不安で、病人の家族ってこんな気持ちになるのだと、当事者の家族のつらさがやっと分かりました。

母の全面サポートがあり、南カリフォルニア大学を卒業

 1996年1月16日に私が病院に運ばれて、突然呼び出された時のことを母がたまに話してくれます。「また走り回っていて骨折でもしたのかと思って病院に行ったら、あれよあれよという間に入院。原因も分からないし、このまま症状が進行するかもしれないと言われて本当に大変だった。お見舞いに行って、家に帰ったら家事をして、の繰り返しで時間が分からなくなっていた」と。

 私が「BEYOND GIRLS(ビヨンドガールズ)」としてイベントに出ていた頃、岡本真夜さんの「TOMORROW」という歌をイベントで歌うのだと話した時の母の言葉も忘れられません。「涼ちゃんが歩けなくなった頃にはやっていたのを覚えている。ちょうどママの状況に歌詞がそのまま響いたんだよね〜」って明るく言っていた母。「涙の数だけ強くなれるよ」「季節を忘れるくらいいろんなことがあるけど」という歌詞に強く共感したそうです。今でも思い出すと涙が出ます。

 母とは対照的に、父はコミュニケーションが下手で、こちらから何かをしてほしいと言わない限り、自分から動こうとはあまりしてくれないタイプです。私が歩けなくなった日、母はショックで何も喉を通らないくらい落ち込んでいたのに、それほどでもない様子の父を見て「絶望した」と母はよく嘆いています。それは男親と女親の違いなのかもしれません。

 ただ、父は経営者であり、そのおかげで裕福な家庭に育った私は、父には経済的な面で安心させてもらえたことに感謝しています。退院後すぐ、家の玄関に昇降機を付け、2階にあった私の部屋を1階に移す改築工事をしてくれました。トイレとお風呂も2階にあったので、駐車場を壊して、バリアフリーで広いお風呂とトイレを1階に作ってくれたのです。

復学後の様子がつづられた連絡ノート

 ◇母の献身的なサポート

 退院後、それまで通っていた小学校に車椅子で復学したのですが、「特別支援学校に行った方がいい」と言う先生たちと話し合いを重ねて実現してくれたのは母でした。毎朝、私を小学校まで車で送り、トイレのサポートをした後、いったん家に帰り、学校が終わる頃に迎えに来て、一緒にスーパーに行って夕飯の買い物をして帰る毎日。社会科見学や合宿などにも、母がいつも一緒に来てくれていました。

 最近、母と復学当時の担任の先生との連絡ノートを見つけました。そこには、教室で私が不安そうにしている様子や、他の子どもの保護者が私のうわさ話をしているのが聞こえてきたことなどがつづられていました。当時、母は40歳。今の私とあまり変わらない年齢です。周囲の偏見や差別もあったと思いますが、私には何も言わず1人で抱えていたんだろうなと思うと、母は本当に強いなぁと感心します。

 思春期の頃は、友達同士で行動したい時でも、私だけ母が付いて来ていることが恥ずかしくて、反抗的な態度を取ってしまったこともあります。でも母は明るく振る舞い、遠くから見守ってくれました。

 私が映画「タイタニック」にハマり、また見に行きたいと言うたびに、母は一緒に見に行ってくれました。将来は映画に携わりたいという夢も応援してくれたし、映画を学びにアメリカに留学したいと言った時も、すぐに賛成してくれて、実際に同行してくれました。

 今でも私を9歳の子どものように思って世話を焼こうとする母がたまに嫌で、「もっとほっておいてよ!」と思ってしまうのですが、結局、人より体調面が不安定だったり、急に入院してしまったりするので心配させているのは事実。実家と一人暮らしの家の間の送り迎えや、「ウンコデー」に便を漏らしてしまった時の洗濯など、助けてもらうことばかりです。

 母は今、「普通のお母さんの何十倍も働いたから、今はもう何もしなくていいんだ~」と言って、大好きなゴルフを鑑賞することに生きがいを求めています。どうすれば母に楽をさせてあげられるか、ずっと考えています。いつか私が母親になることがあったら、自分が母から愛情を受けたように子どもを愛したいと思います。

映画について学んだ南カリフォルニア大学の卒業証書

 ◇自分らしく居られる場所

 9歳で歩けなくなってから、私はいつも人との壁を感じて生きてきました。車椅子であること以前に、性格的に集団に合わせることが苦手で、集団行動がつらいのです。アメリカに留学中は心地よく過ごせたのですが、日本では、どこか浮いた存在になってしまい、会社員時代も組織の中でうまくなじめずにいました。会社を辞めたのは、実はインフルエンサーになりたいという理由だけではなかったのです。いつもうまくなじめないのは、身体的障害だけでなく、自分のパーソナリティーの問題なのかなと、ずっと悩んできました。

 そんな私が、車椅子インフルエンサーと勝手に名乗って発信活動を始め、いただいたお仕事をがむしゃらにやり続け、障害者としてのつらい経験を赤裸々に発信し続けて4年がたった今、ようやく天職だと思えるようになりました。フリーランスなので組織に従う必要もないし、自分がしたいことをメインに活動できて、私にはすごく向いているようです。

 車椅子になってからずっと、人と違うこと(これは車椅子だけでなく、性格など自分の内面の問題も)で生きづらさを感じていたのですが、26年たって、やっと自分らしい仕事、生き方を見つけることができました。

 今、生きづらさを感じ、人と違うことがいけないのか、周りになじめないのは普通じゃないのかと思っているすべての人たちに、この気持ちを伝えたい。自分がありのままで居られる場所が必ず世の中にはあります。でも、それを見つけるまでにはたくさんのつらい経験や失敗が付き物なのだと思う。孤独を感じているかもしれないけど、絶対に居場所は見つかります。信じてください。私は26年たってやっと見つけました。今、心から言える。車椅子になってよかった。

車椅子インフルエンサーとして自分の居場所を見つけた

 ◇車椅子になってよかった

 車椅子になって本当によかった。普通に歩けるまま35歳になっていたら、こんなにたくさんの温かい人たちに支えられ、夢を見つけることもできていなかったと思う。日本を飛び出して海外で暮らしたり、会社員をやめてインフルエンサーになったりしたことも、障害者として生きてきたバックグラウンドがあるからこそできたこと。普通じゃないこの人生が今、すごく楽しい。子どもの頃に一生分の苦しいことを経験したから、大人になった今、子どもみたいに一つひとつのことに喜びを感じることができます。

 生きていることの大切さ、手が動く、話せる、耳が聞こえることの素晴らしさ。歩けないし、下半身まひによる内部障害もあるけれど、できることもたくさんある。普通より選択肢が少なければ、自分にできることが分かりやすいとも思えます。

 人生を諦めなくて本当によかった。それは、家族、周りのみんながいつも温かく見守ってくれたからです。本当にありがとうございます。これからもこの普通じゃない人生を、もっともっと楽しんで、どんな状況になっても人は生きていける、ということを証明し続けたいと思います。

 私が歩けなくなった日は生まれ変わった日だと思っています。歩けなくなった1月16日は私のもう一つの誕生日。その16日にちなんで、この連載を16回で終えたいと思います。(了)



中嶋涼子さん

 ▼中嶋涼子(なかじま・りょうこ)さん略歴
 1986年生まれ。東京都大田区出身。9歳の時に突然歩けなくなり、原因不明のまま車椅子生活に。人生に希望を見いだせず、引きこもりになっていた時に、映画「タイタニック」に出合い、心を動かされる。以来、映画を通して世界中の文化や価値観に触れる中で、自分も映画を作って人々の心を動かせるようになりたいと夢を抱く。

 2005年に高校卒業後、米カリフォルニア州ロサンゼルスへ。語学学校、エルカミーノカレッジ(短大)を経て、08年、南カリフォルニア大学映画学部へ入学。11年に卒業し、翌年帰国。通訳・翻訳を経て、16年からFOXネットワークスにて映像エディターとして働く。17年12月に退社して車椅子インフルエンサーに転身。テレビ出演、YouTube制作、講演活動などを行い、「障害者の常識をぶち壊す」ことで、日本の社会や日本人の心をバリアフリーにしていけるよう発信し続けている。

中嶋涼子公式ウェブサイト

公式YouTubeチャンネル「中嶋涼子の車椅子ですがなにか!? Any Problems?」

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